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140. バスの中の独演会

カテゴリ 中東

ある日の昼下がり、息子と買い物に行った帰りのバスでのこと。運よく開いた席を見つけ、ベビーカーに乗った息子と遊んでいたら、バスの後方からおじいさんのよく響く歌声が聞こえてきた。そしてそれがバスの中に響き渡るにつれ、否応なく、まるでダンブルドアの部屋にあった憂いの篩に入ったかのように、9年前の光景が、さざ波のようにそこへ広がっていった。

9年前の3月、私はペルシア語を勉強する大学生としてテヘランに留学していた。当時(も)語学学校の授業が終わるとすぐ、バスに乗っては街に繰り出していた。あれは確か、テヘラン国際ブックフェアに向かうバスでの出来事だったはずだ。話したい気持ちはあるのに、いつも同じような質問ばかりしてくるイランのみなさまに少し飽き飽きしていた時期だったこともあり、その時、私は本を読んでいた。そして、それは突然始まった。おじいさんがおもむろに立ち上がって通路を歩いたかと思うと、自己紹介を朗々と始めた。続いて、大きな声で歌い始めたのだ。近くにいた乗客は少しすると手拍子をはじめた。その熱が段々とバス全体に広がっていく様子を、私は無関心を装いながら、ひそかに観察していた。最後は、運転だけに集中できなくなったバスの運転手も巻き込んだ壮大なショーとなった。

この時の様子を、私は"中東マガジン"(川上泰典さん主宰の朝日新聞社のウェブページ。現在は閉鎖)に、「他人のことに興味があれば、すぐに態度に表すイランの人と、見て見ぬふりをしようとする日本人の筆者。素直に感情を表せるイランの人が、この時ばかりは羨ましく思った」と寄稿させていただいいた。

そんなこともあって、私は9年前の私と会話しながら、今回もバスの中の様子を観察することにした。手のひらに収まるNokia製のケイタイをみなが持ち、バス代のおつりを巡ってバスの助手と乗客が喧嘩した時代から、スマホでゲームにいそしみ、バスカードでキャッシュレス決済となった時代へと、大きく変化している。

その結果は、良くも悪くも時代の変化を感じさせられるものだった。おじいさんはおそらく9年前と同じ人(実はテヘラン滞在が長い日本人の友人も、このおじいさんの事を知っていた)。彼が歌いだしても、拍手はあまり起こらない。歌の合間には、「下手な歌声を聞いてくれてありがとう。でも、後悔だけはさせません」と、客を盛り上げる。しかしおじいさんが拍手を求めた時だけ、その周りにいる数人だけが拍手をした。それもぱらぱらと、義理拍手だ。迷惑がっている様子こそないが、我関せずといった感じで、手元のスマホをいじっている。おじいさんは場所を変え、車内の色々な場所で歌うものの、9年前にあった車内の一体感は醸成されない。そのうち自己紹介が始まった。当時よりはよく聞けるようになったペルシア語で聞いてみると、彼は経済的に苦境にあるらしく、要は歌の代わりにお金が欲しいらしい。降りる直前まで歌い続けたが、ぱらぱらとしか集まらなかったようだ。9年前の、あの一体感は幻だったのだろうか。もし9年前のおじいさんと、この日に会ったおじいさんが同じだとすると、飽きられてしまった可能性はある。だがより現実的に考えれば、「他人のことに興味があれば、すぐに態度に表すイランの人」が、実はテヘランでは次第に消えつつあるということかもしれない。スマホの登場で、人としゃべらずとも時間をつぶせるようになった。バスカードの登場で、コインを探してかばんをひっくり返す手間は省けたが、同時にバスの助手とのコミュニケーションの場もなくなってしまった。またもしかしたら、開く一方の経済格差が原因で、他の人に気を配る余裕がない人が増えたのかもしれない。

だとすれば、私は少し悲しい。これまでのブログでは、イランのみなさまによく話しかけられるということを多く書いてきた。それこそが、彼らの憎めないところだった。だがそれとは逆の、このバスのような雰囲気が、テヘランを支配しつつあるということが現実ということなのだろうか。テヘランも、少しでも他人の領域を犯したら即刻冷たい視線を浴びる、日本の電車のような雰囲気になってしまわないことを、心から祈る私であった。

私の隣に座っていた若者が、「好きなだけ歌っといて、結局は金を要求するんだ」という呟きが、未来を暗示させるものでないことを祈るばかりである。


【ひとことペルシア語140】 jiz(ジーズ)
:大人が幼児にいう言葉の一つ。「ダメ」を意味する。例えば、私の息子が暖炉に近づこうとすると、近くにいる大人がこの言葉を発する。最初何人かの大人が同時にこれを発した時、ハチでも近くにいるのかと思った。


【書物で知るイラン10】『沈まぬ太陽』 新潮文庫、山崎豊子著
:国民航空の恩地元は、労働組合での活動を理由に、同社の社内規定を大幅に超える10年の海外勤務を余儀なくされた。その2つ目の駐在先が、テヘランだ。映画版ではテヘランのシーンはわずか数分で、ナイロビ行きを命ぜられるレタックスがカタカタと出てくるのが唯一印象に残るシーンだが、小説ではここテヘランでも、恩地さんは活発に働いている。チーム山崎の取材力はさすがなもので、文庫版で5冊分の大作の1シーンであるテヘラン駐在の事も年密に調べられており、数十年前のテヘランの空気がこんなものだったのか、と錯覚を起こさせるには十分だ。
なお国民航空のモデルである日本航空は、90年代までテヘランに支店を構えていたようだ。というのは、その支店跡がそっくり現在まで残されているため、分かったのだ。こちらにおられてご興味のある方は、一度訪れてみてはいかがでしょうか。私は近くを通るたびに立ち寄っている。当時の分厚いコンピュータや、恩地さんがケニアの運輸省に持参したのと同じようなJALカレンダーがそのまま放置されている。単にテナントの買い手がつかないだけだと思うが、旅行会社や航空会社のオフィスが軒を連ねる通りの一角、それも一階に、日本のフラッグキャリアのが支店を構えていたということは、日・イラン交流史に彩りを添える。ビザなしで日本に来ることが可能だった時代、このオフィスはさぞ繁盛したことだろう。
住所:Enqelab St.,Nejatrahi St.(vila St.)
*Enqelab St.からNejatrahi St.を北上して10m足らず、右手に支店跡がある。

余談ではあるが、大学時代、同じ学科(ペルシア語学科)の先輩・後輩と教授とでこの小説の話になった。その時その場にいたすべての人が、テヘラン赴任は左遷ではなく栄転だ、ということで意見が一致したことを、この記事を書いていてふと思い出した。



*なおこの記事は筆者の個人的な経験に基づいて記載されており、筆者の所属する組織とは全く関係がありません。

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サラームまでの距離

http://blog.livedoor.jp/mizutani67/

イランの首都テヘランに駐在中の筆者が見た、この国の模様を執筆するブログ。駐在先としてあまり聞かないと思われるイランの様子を肌で感じられるような記事を週に一回アップ中です!

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