もうずいぶん前の話のように感じるが、米国のトランプ大統領がJCPOA、イランの核開発をめぐる国際合意から身勝手に抜け出してからまだ1年も経過していない。
その発表があった直後、私は友人とイラン中西部3州に旅行へ出かけていた。移動は基本的に陸路だ。以前ご紹介した、イーラーム州からロレスターン州へは、隣の州なのに交通の便がとても悪く、結局車を1台チャーターすることになった。ホテルで聞いたら、バスは全くなく、路線タクシーも2回乗り換える必要があるとのことだったので、この選択は致し方ない。隣り合っている州といえど交流があまりないということは、イランを旅しているとたまに出くわす事態なのだ。
さてイーラーム州からロレスターン州の州都ホッラムアーバードへは、車で3時間ほどの山道だ。伊勢志摩スカイラインのような道を、ひたすら銀のプジョーが突き進む。私と友人は2人旅がこれで2度目。さすがに話すことも尽きつつあり、まるで倦怠期のカップルのように、車が進む旅、交わす言葉は段々と減っていた。そうなると、視線は自然と窓の外に向かう。そこは、1面の小麦畑。
どれくらいであったろうか、多分1時間ぐらいであろう、この小麦畑がずっと続いた。このような景色をずっと見続けるうち、「米国の制裁なんて、この小麦畑があればまた乗り切ってしまうのではないか」という、根拠のない自信がこみ上げてきた。誰の目からも明らかなように、米国の身勝手な振る舞いで一番迷惑をこうむるのは、この国に住む普通のみなさまだ。彼らが意図する体制の崩壊とやらは、経済制裁ではびくともしない、むしろ経済制裁で利益を上げられるような仕組みになってしまっている感すらもある。私はイランのみなさまが制裁に苦しむ様子を見るに堪えない。その後現在に至るまで、経済制裁はかなりイランの経済をむしばんでいるといわれているが、それは後の話であり、この時点で私は、とりあえずありつく食べ物はありそうだな、と直感的に安心したのである。(ただ、2019年3月にイランの多くの地域を襲った大雨と洪水はこの州にも甚大な被害を与えたそうで、私が昨年見た小麦色の畑が今年どうなっているのかは、暗い予想しか立てることができない)
ロレスターン州に到着したはいいが、運悪くラマダンの最中で街は閑散としており、夕方になってやっと開き始めたレストランで一服。先ほど車中で考えていたことが、私の頭の中でぐるぐると回転している。こんな時は、濃いお茶のその渋みも、全く苦にならない。(ラマダン明けに出されたお茶。見た目鮮やかな甘味と共に。この後大量のありに襲われ、左の白いお菓子はほとんど食べることができなかった。撮影:筆者)
この日はイランにとって大事な日。サッカーW杯ロシア大会中で、イランはモロッコとの初戦を迎えるのだ。政治とは無縁であるはずのスポーツにまで、米国制裁が影を落とす。ナイキ社が米国政府の圧力に負け、W杯直前にイラン代表へのスパイクの供給を停止したのだ。選手たちはロシアリーグで活躍する代表選手の助けを経て、ロシア国内で急遽スパイクを購入したといもしイランサッカー協会ががアシックス社と契約をしていたら、どのような対応をとったのだろうか。選手たちはロシアリーグで活躍する代表選手の助けを経て、ロシア国内で急遽スパイクを購入したという。
試合は後半終了間際、モロッコ代表のオウンゴールによりイランが勝利。W杯では実に20年ぶり、フランス大会でアメリカ代表を破って以来だ。この勝利に、イラン中が燃えた。試合終了後ホテルへ戻る途中、道は勝利を祝うイランのみなさまの車で大渋滞だった。窓から乗り出し、雄たけびを上げる者、国旗を身にまといバイクで疾走する者、顔にペイントをされた子どもたち。。。
ホテルに着くと、その前の広場は同じような大騒ぎ。日韓W杯で韓国が準決勝に進んだ時の韓国のパブリックビューイング、とまではいかないが、老若男女問わず、思い思いの方法でイランの勝利を喜んでいる。僧堂防止のために機動隊も出てきているが、花火ぐらいは大目にみているようだ。
(レストランの裏側で生観戦。最初、パブリックビューイングがあると聞いたのだが、それは力道山スタイルだった。撮影:筆者)
結局、私たちがホテルに戻った後、深夜2時ぐらいまで騒動は続いたようだ。それはまるで、これから近い将来必ずやってくる経済制裁から、一晩だけでも忘れさせてくれと叫んでいるようにも聞こえたのだった。
【ひとことペルシア語141】 halle(ハッレ)
:hallというのは、(何らかの問題が)解決したという意味。halleはhall astの口語形で、「これで解決、これでよし」という意味を表す。
【書物で知るイラン11】『海賊と呼ばれた男』講談社文庫、百田尚樹著
:出光興産の創業者である出光佐三の一生を描いた自伝。作者が作者だけに、全体の作風がこのようになってしまうのは致し方ないものの、アングロイラニアン石油を国有化し、当時の覇権国イギリスに対し反旗を翻したために、石油の禁輸措置を受けていたイランへ、ち密にそして大胆に石油を買いつけに日章丸が駆けつけるその姿は、読む者の心を打つ。某超大国の方ばかりを見る現在の日本社会への痛烈なメッセージとして受け止めることもできる。
なお日章丸が60数年前に到着したアーバダーンには石油博物館ができたとのことだが、日章丸への言及はないようだ。私が地元で聞いてみた時も、そもそも誰も覚えていなかった。日・イ交渉史の1ページを彩る出来事だけに、少し残念である。
*なおこの記事は筆者の個人的な経験に基づいて記載されており、筆者の所属する組織とは全く関係がありません。