ホッラムアーバードからチャーターした車で移動すること約3時間、私と友人はこの旅の最後の目的地
であるアラークに到着した。
ところで一緒に旅をした私の友人は、どこか抜けたところがある。前回の旅行でバムを訪れた際、そこからケルマーンへの乗り合いタクシーの車中、彼が手ぶらであることに気づいた。メインのカバンとは別に貴重品のカバンを持っていたはずだ。聞いてみると「トランクに入れた」という。私は慌てて車を停めてもらい、トランクを開けてもらうことにした。いくら犯罪が少ないイランであるとはいえ、貴重品は肌身離さず持っているのが基本だと思うが。今回の旅行でも、テヘランのバスターミナルへ向かう車内で、彼はパスポートを持っていないことを思い出した。ビザ延長のため、語学学校に提出していたらしいのだ。イランではホテルに宿泊する際パスポートの提出が義務付けられているため、致命傷である。勿論事前に語学学校へ申請さえすれば証明書を発行してもらえるが、それも忘れていたらしい。悩泊まるのが無理だったらそのまま夜行バスで引き返す、という考えたんだか考えてないんだか分からない結論に達し、我々は旅へと出発した。前回までの記事で書いたとおり、イーラーム、ホッラムアーバード、そしてこのアラークで、私のパスポートと彼の学生証を駆使して宿泊できたのは幸運としかいいようがない。よいイラン旅行者のみなさんは、決してマネをしないようにしていただきたい。
さてアラーク。私は大抵出発前に旅行書をナナメ読みしたうえ、宿泊先のホテルで名所を聞いて、訪れる場所を決めている。たいてい、ホテルの従業員が嬉々としておらが村の名所を紹介してくれるのだが、アラークは違った。こちらが質問をしても、あまりのってこないのだ。どうやらテヘランから近く、また鉱山資源に恵まれていることで工業が盛んなため、観光業にはあまり注力していないことが影響しているらしい。
結局、事前に調べたホメイン・シャフルへ出かけることにした。そう、その名前が示すとおり、イラン革命のアイコンであるルーホッラー・ホメイニー師生誕の地だ。博物館として公開されているらしい師の生家を見に、またまた借り上げタクシーに飛び乗った。アラークからは車で1時間ほど。イランによくある荒野を眺めていると、後部座席の友人が突然叫んだ。何事かと思ったら、彼がこう続けた。
「俺、今日アメリカ国旗がついた服着てる!」
状況を整理しよう。アメリカと蜜月を築いていたパフラヴィー王朝支配下の1979年、拡大する貧富の差、蔓延する腐敗などの不満が爆発する形で革命が発生した。それを成功に導いた指導者の一人であり、アリカを”抑圧者"の象徴として痛烈に批判したホメイニー師の生家に向かう途中、友人は自分がアメリカの国旗がついた服を着ていたことに気づいたのだ。私は「今日は一人で帰ることになるのか」と、肝試し前ように彼をからかった。
そして、生家に到着。彼はびくびくしながらタクシーから降りた。友人は運転手にも、何も起こらないかと確認していた。入場口。身分証の提示を求められる。それが終わると入場できるはずなのだが、係官はここで少し待て、という。まずい。彼の顔に緊張が走る。外国人が訪れるのは珍しいらしく、さらに2人ともペルシア語を話すことが更に彼らの注目を引いたのかもしれない。この博物館の責任者が今こちらに来るから、少し待てとのことだ。ジ・エンド。彼はさらに緊張の度合いを高めた。
待つこと数分。件の責任者が登場。軍服を来た入場口の係官とは違い、法衣に身を包み、白いターバンを被っている。恰幅のよい男性だ。私たちの方にやってくる。友人はじりっと後ずさりする。その責任者は、「サラーム」と、柔らかい笑顔で右手を差し出した。私も「サラーム」と返答する。彼の次の言葉をじっと待つ。
「一緒に写真を撮りましょう」
え?
結局、あなたもイラン人かい。結局、ホメイニ師の写真の前で3ショットを何枚か撮り、責任者は法衣を風になびかせてさっそうと帰っていった。
その後は何事もなかったかのように博物館へ入り込み、生家部分を見学した。相当部分改築や増築が行われているらしく、元の家の部分がどこなのか、一目ではよくわからないほどだった。
(ラブ&ピース。生家部分の中庭の池。撮影:筆者)
(師もこのように日々のお祈りをしたのであろうか。左足だけ靴下が脱げているのは愛嬌。撮影:USAの国旗が入った服を着た友人)
今回の出来事、日テレの人気長寿番組『世界まる見え!』で、大事故から救出された少年の再現VTR風にいえば、「いや~助けてくれた友人に感謝だね。もう彼の事を間抜けとかいわないようにするよ。だってこれで1本記事が書けたんだもん」。。。1年後、そこにはその時の思い出を記事にする筆者の姿が!!!
といったところか。
【ひとことペルシア語142】naanayina (ナーナイナ)
:踊りなされ!という意味の言葉。これも幼児だけに使われる。息子をどこかのおよばれに連れて行くと、必ず(特に年配の女性から、)手拍子と共にこの言葉をかけられる。息子もそろそろ覚えたのか、この言葉をきくとダンスっぽい動きを始める。
【書物で知るイラン12】『普遍史の変貌-ペルシア語文化圏における形成と展開-』名古屋大学出版会、大塚修著
:本書は歴史学の本格派。歴史学界の松坂大輔だ。資料及びその校正テクストの写本・校訂本の正統性にまでつぶさに吟味し、ペルシア語文化圏における歴史認識を詳らかにしていく。私は歴史学の徒ではなく、あまりに込み入った記載は1度読んだだけでは理解しきれない部分もあったが、筆者の、最後まで冷めきれない歴史学への真摯な姿勢には最後まで心を動かされた。19時間かけて旅をしたバンダレアッバースからテヘランまでの夜行列車で最後の数章を読み切った時には、その間水を飲むのも忘れており、脱水症状のような状態になってしまった。
*なおこの記事は筆者の個人的な経験に基づいて記載されており、筆者の所属する組織とは全く関係がありません。