ここテヘランでも急に朝晩冷え込むようになってきた。天高く馬肥ゆる秋、である。こちらの秋は日本の秋よりももう一段階カラッとしていて、1年の半分ぐらいこの気候が続けばいいのにといつも思っている。
そんな爽やかな秋晴れの一日、私は9年ぶりにとある場所を訪問した。それは、日本人墓地である。こちらの日本大使館が毎年実施している同墓地の参拝に参加したのだ。テヘラン市の南部、ベヘシュテ・ザフラ―という大きなイラン人墓地の近くにひっそりと佇む外国人墓地の一角に、日本人墓地がある。
ここには8名の方が永眠されている。
私は今回の駐在期間中、この日本人墓地の参拝に一度は参加したいと考えていた。それは、そこに私が「尊敬する人を3人挙げてください」と聞かれたら必ず名前を挙げる方もお眠りになっていることを知ったからだ。
その方のお名前は、故・井上英二氏である。【書物で知るイラン13】(143. 架け橋になるということ)でも紹介した、私の大学の先輩である。先輩、といっても井上さんが大学を卒業されたのは昭和の一桁のことだし、当時はペルシア語科はなかったから、そう呼ぶのはおこがましいことかもしれないが、尊敬の念を込めて、このように呼ばせていただく。
井上先輩はペルシア語研修生として昭和の初めにこの地に赴任されたのを皮切りに、アフガニスタン・イランで21年間過ごされた元外交官である。またそのキャリアの途中で商社や石油元売り会社でも働いており、イギリスの警戒網を突破してイランの石油を買い付け、世界を驚かせた出光の現地駐在員としてイラン側との交渉に臨んだのも彼だ。
私が生まれた時にはすでに故人になっておられたから、ご子息が編集された遺稿集でしか先輩の事を知ることができない。しかしその遺稿集を通じて、先輩がイランに対する深い愛情、イランと日本の橋頭保になるという一貫した思い、そしてそれに必要な、イランを客観視する目、更に、ペルシア語に対する真摯な姿勢を持ち合わせていたことを理解した。昭和の一桁、今とは比べ物にならないくらい情報が少なかった時代に、幼少のころからペルシアの地に思いをはせ、ペルシア語研修生を志願し、本当にそれを実現させただけでもすごいのに、それに飽き足らず、である。例えば学校でペルシア語を勉強するのに加えて、下宿先の子どもたちに毎日ペルシア語を教えてもらったり、イラン中を馬車やトラックで旅行されたりしている。
学生時代に出会ったイランに恩返しをしたいと思って今の職場を選んだ私も、遺稿集の頁をめくるたびに、先輩のその真摯な姿勢に圧倒させられ、まだまだ努力が足りないと、そう思わされるのだ。
日本人墓地には学生時代に一度参拝した時はまだ先輩の事は知らなかったため、今回の参拝ではしっかりとその魂に触れたいと思った。
日本人之墓、と記された大きな墓標の前に、ノートパソコン2つ分ぐらいの大きさの墓石が並べられており、その一つが井上先輩のものだった。その墓石には日本語とペルシア語で、"日・イランの友好関係に一生を捧ぐ"と記されていた。焼香を上げるためにその前を通った時、身震いがした。先輩が、「お前、もっと頑張れよ」と語りかけてくれているようだった。
私の駐在期間があとどれくらい残っているのかは私の与り知るところではないが、最後の1秒まで、この国のためにできることは何かを考えて実践していきたいと思った秋の一日だった。
【ひとことペルシア語163】'arzam be bozur-e shoma...(アルザム ベ ボズーレ ショマー)
:直訳の意味は「あなた様の御前で申し上げます...」。会議などの改まった場からくだけた会話に至るまで、間投詞のように用いられる。人によっては意味のある内容よりもこちらを連発する人もいるため、結構よく聞かれる表現。
【書物で知るイラン30】
:イランの高等学校で使用されている教科書を邦訳した本書。イラン革命を現地で体験した大学時代の恩師が丁寧に翻訳してくださっており、日本語としてとても完成度が高く、一気に読み切れる。教科書なので章末には問題が載せられているが、ひたすら暗記というよりは、頭と体を使って考えさせるような設問も多く、(この教科書を使う生徒が本当に使い切れているかは別として、)教科書としてなかなかよくできていると感心させられる。現代に近づけば近づくほど、体制のイデオロギーが濃く反映されるような記載が多くなるのは仕方のないことであるが、それでも私が想像していたよりは随分と客観性を重視した記載も随所にみられた。
*この記事は個人の体験に基づいて記載されており、筆者の所属する組織の見解とは全く関係がありません。