イランのみなさまはお話が好きである。個人差もあろうが、日本人に比べて平均値で3割、いや4割増しぐらいのイメージだ。静かなバスの車内とか、テヘランの街には似合わない。私の同僚で特に話が好き(≒話が長い)人が、トイレに行こうとしていた別の同僚に声を掛けてそのまま30分程拘束、その同僚はトイレに行こうとしていたことを忘れて席に戻ってしまうなんてこともあった。よくもまぁこんなにも話すことがあるなと、いつも感心させられる。
適度に相づちをうったり、こちらが適度に話の流れを違う向きにもっていけば、そんなに不快な思いをすることは大抵ないのだが、彼らと付き合う中で一つだけ、どうしても不快になってしまうことがある。それは、「(理想論として)〇〇すべき/すべきでない」ということの押しつけだ。
例えば先日、こんなことがあった。私の知人と息子の食生活について話をしていた時のこと。私の息子はミルクに代わり牛乳をとてもよく飲む。1日に1L弱を飲むこともざらである。そういう話をしたところ、知人が「イランの牛乳は身体によくない物質が入っているから絶対飲ませない方がいい」、「すぐ別のものに変えた方がいい」、「日本から牛乳をもってこれないのか」と、隣に座っていた時分の娘とともに唱え始めた。また始まった、と思い、とりあえず話したいだけ話させておいて、適度なタイミングで話題を切り替えた。私だって、仔牛の時から自分で育てた牛の乳だけを息子に飲ませられるのであればそれがどんなににいいか、そんなことぐらい分かっている。また、例えば日本でも例えば「狂牛病に感染した恐れのある牛の肉骨粉が成分に入っている餌を食べた乳牛の」牛乳が市場に出回っているという話は聞いたことがある。でも市場から牛乳が消えないのは、私のような会社勤めのサラリーマンが、その傍らで牛を育てることが出来ないからだ。でもこうして真正面から「体に悪いから飲ませるな」と言われてしまうと、私の育て方が悪いと非難されているかのようだ。
ま、単にそうやって言われただけならその不快さは少しで収まるのだが、そうはいかないのがこの国イランである。その知人が別の日に我が家に来た時のこと。渡すものがあったのでそれを渡し、一息ついたところで私にこう言った。「喉が渇いたから牛乳をくれない??」
私は近くにおらず、返事だけをした。知人が帰った後冷蔵庫を開けたら、1Lあった牛乳の7割ぐらいがなくなっていた。
「牛乳をくれない?」と聞かれた時点で、私は「イランの牛乳は健康に悪いから絶対に息子に飲ませるな」と言われた時の不快な気持ちがじわじわと湧き上がってきて、飲んだ量がコップ一杯ではなかった時ことを知った時、更に不快さが増したのだった。まるで牛革の靴とジャケットを着て、象牙のハンコを筆箱に忍ばせている動物愛護団体の職員ではないか。
残りの牛乳を飲み干し、少し溜飲が下がったところで自分がイランにいることを思い出し、少し考えてみた。ありうるのは2つ。最初の「牛乳は云々」は、ただ、言いたいだけだったた場合。要するに、「牛乳」というワードで脳内検索をした結果出た話をとりあえずまくしたてただけで、自分が牛乳を飲んだ時、そのしばらく前に私に言ったことなんて全く覚えていないはずだ。もう一つは、「いいの、ケーキはべ・つ・ば・ら」的な、究極の合理化がおこなわれた場合だ。この知人の場合は、これまでの付き合いからして後者の場合が多いと思われる。きっと、「喉が渇いているときはいいの」とか、「私はもう年を取ったからいいの」とか、自分の中でやっているのだろう。
そう思いながら近所の書店をふらふらしていたら、入り口の目立つコーナーが、日本語を含む外国語から翻訳された自己啓発や「〇〇のためにすべき100のこと」といったような本で埋め尽くされていた。こういう本を読みながら、終わるとも終わらない話のネタ作りに勤しんでいるイランのみなさまの様子が、容易に想像できた。
【ひとことペルシア語171】dandan-e 'aql(親知らず)
:'aqlは、“知恵”という意味。知恵がついた頃(=大人になった頃)生えてくることか。
*この記事は個人の体験に基づいて記載されており、筆者の所属する組織の見解とは全く関係がありません。
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