タピオカ(キャッサバ)
29日(木)曇り。夜中に目覚めて眠れずに読書。1持間ほど眠って朝粥に参加。ゲストハウス組の一人が歴史に興味があるらしく、いろいろ聞いてくるので話しながら歩く。東京出身で民間企業で海外駐在員だったらしい。奥さんが東南アジアを毛嫌いして困ると。
確かに男性一人で来ている人の中にはそういう人はいる。マレーシアの位置関係すらおぼつかず、「汚い、遅れている、怖い」というイメージが定着している。これを「南洋史観」というが、これとて、日本政府が戦前、戦中にこの地の人達を土人と呼んだ蔑視観の影響が大きいといえる。
教科書にもそう表現したし、明治以降にマレー半島に足跡を残した日本の「文化人」島村抱月、徳富蘆花、永井荷風、福沢諭吉らにしてさえが、「土人」と蔑視してはばからなかった。永井などは「醜い馬来(マレー)の土人や汚い支那の苦力」と露骨に書いた。
滋養剤に?
占領後日本は現地でどんな教育をやったか。一日の始まりを見てみよう。現在は時差1時間に過ぎないが、学校の生活時間は日本時間に合わされ、日の丸掲揚、宮城遥拝、君が代斉唱で一日が始まる。授業の中心は日本語と体錬(体育)で英語教育は全て禁止された。
中国語を方言扱いし、マレー語やヒンズー語の授業は一日1~2時間。民族の言葉さえ奪う暴政で、イギリス支配下でさえなかった。日本語と言っても教える教師がいないため「興亜訓練所」でにわか作りの教師や役人を養成しようとしたがそう簡単ではなかった。
当初は民族性の強い中国語の教科書を全て廃止して、完全な日本語教科書をつくる計画だったが、人材不足でできなかった。それで、算数、地理、歴史、常識、公民は教えなかった。学校の休日も日本の紀元節、陸軍記念日、天長節、靖国神社例祭などを休日とした。
毎週いるわけでもない
現地の人々にとって屈辱的だったのは、シンガポール陥落の2月15日を「馬来新生記念日」シンガポール初爆撃の12月8日を「大東亜聖戦記念日」という祝日にしたことであろう。こうした状況下では学校の出席率も悪く、平均出席率は40%程度、意識的登校拒否もあったと。
中国系の反感の感情は例えば、軍政下の中国系の学校の数は占領前の僅か6%、生徒数も6%。英系学校(生徒はほとんど中国人)はそれぞれ44%、19%、それに対し、マレー系の学校はそれぞれ76%、79%、インド系は50%、79%となっていることでもわかる。
学校だけではない社会教育にも及ぼし、マレー半島各地に日本語学園を林立させた。例えばシンガポールには「星州日本語学園」が設立され、校長に詩人の神保光太郎、教師に作家の井伏鱒二、海音寺潮五郎、中島健蔵氏等がいた。井伏は軍部と対立して帰国することになる。海音寺、中島氏らは戦後反省の弁を綴っている。
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