インド人警官
3013年9月1日(日)快晴。昨日から日本語塾が再開された。最も熱心なOさんとKさんの二人。Oさんがインドに有機栽培の営農指導に行ってこられたとのことで、その体験を日本語で説明してください、というと、4泊5日、20人位でインド南部へ行ったようだ。
有機栽培なんて日本でも話題になってまだ10数年ではないか。それをインド南部の田舎で実践するなんてもっと詳しく聞いてみたい気がする。そんな話から1泊2日の言い方に興味を示した。hakuとpaku,kaとnichiさらには6日や8日、10日の発音の違いなど。
外国人に日本語を教えて初めて気づく日本語の繊細さ、表現の多様さ、複雑さ。これを英語に直してしまえばなんと味気ないことかと思うことが沢山ある。会話は出来ても込めた気持ちを理解してもらうのは容易ではない。だからこそ直接対話に意味があると思う。
表彰を受ける少数民族
今日は関東大震災から90年ということで2日ほど前からNHKは特集番組を流しているのはいいのだが、日本は地震から逃げられないことは分かっている。だからそんな国土に原発と共存が可能なのかどうかという視点での議論が少しも見えないことが不満である。
さて、再び日本がアジアで何をしたか。占領直後のシンガポールでの日本語新聞「昭南日報」の社説は「東亜の人民が帝国の指導の下に共に生きるためには指導国の精神文化を理解し、指導国の言語を理解しなくてはならない。これは非常にはっきりわかる道理である」
他国を侵略し占領した地でこれほど「盗人猛々しい」言い分があるだろうか。韓国併合で朝鮮語を奪い、日本語を押し付けた「成果」に学んだつもりか、これほど民族の自尊心を傷つけるものはない。さらに「日本の文字、発音は便利で、学習は少しも困難ではない」これを読んだ一中国人は戦後「無駄な時間だった」と。
宴席
イギリスの植民地主義者ラッフルズはシンガポールに学校(ミッションスクールは勿論マレー、中国、インド系も)を各地に建てたが、特定の言語を禁止したり、英語を強制したりはしていない。彼の名前がホテル、大学、植物園、道路名で残り、消されなかった。各地に林立させた日本語学園は一つも残っていない。
私の関心上、教育の話を先に紹介したが、占領中の軍政(形ばかりの市制)の模様を「昭南日報」から引用するが、私が帰国後、国会図書館で調べたところ、占領中の3年分がなかった。この新聞さえ証拠物件として保存することを恐れたのか。シンガポールにある。
占領の翌日、2月16日シンガポールは「昭南島」シンガポール市は「昭南市」と改称され、キャセイ劇場の前に「マレーは帝国の領土なり」の横断幕が掲げられた。(なぜか4,5日後に取り外されたという)こうして日本の過酷な軍政がスタートすることになった。
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