小学校の校庭休憩時間
14日(土)晴れ。今日は朝粥と日本語塾の日。4人で始まった日本語塾だったが、最後は熱心な二人が残った。他の二人は忙しいこともあった。今日で終わりにすることに。結局11回の塾だった。マニュアル本に従って進めたが、質問が多く、やり易かった。
二人はお礼にと、19日、ブリンチャンの中華料理店で昼食を招待されることになった。日本語塾は私にとっては現地情報を入手できるまたとない機会で有難いことだった。他の日本人にも羨ましがられた。次回もとお願いされたし、他の友達も誘っていいかとのこと。
日本の社会、とりわけ学校は個性を殺す場になっていると断定してもいい。それを証明するには平常の学校を壊してみればわかる。忘れもしない、阪神淡路大震災の時、制服をはじめ文房具一切が失われ、何週間後、学校再開で教師たちは生徒たちの家を訪ね歩いた。
中学校のキャンテイーン(食堂)
生徒や親たちは口々に「制服も何もかもない」と。教師は言った。「何もいらない。君が学校に来てくれるだけでいい」そして学校が再開された。登校する生徒は何もかもがバラバラだった。ある教師はこの時の体験を「みんなバラバラがいい」というレポートにまとめた。私は後日それを読んで感動、やっぱり・・と。
私にも経験がある。シンガポール日本人学校。日本の学校のような細かい規則がなかった。生徒の多くは様々な国の学校を体験してくる個性豊かな生徒が多かった。ある年、国内からツッパリ女子がロングスカート、口紅、イヤリングのいでたちで私のクラスに転入してきた。父親が彼女を立ち直らせようと連れてきたのだった。
私はその子に言った。「明日からもそのスタイルでおいでよね」3日も続いただろうか。休み時間になると、私のクラスの廊下に見学者が列を作った。彼女はいたたまれず、いつの間に短パン、半そでの他の生徒と同じになっていた。私は新潟県教委に「非行児は海外においで」というレポートを送った。
体育の授業?
海外日本人学校には私のようなはみ出し者のユニークな教師が沢山いた。職員会議は毎回激論だった。それこそ残業などものともしなかった。つまり、バラバラだった。それが私には心地よかったし、生徒にとってもそうであったに違いないと、帰国後確信した。
個性豊かな教師の下に個性ある生徒が育つ。新潟I中に転入してきたドイツ人のL子は私が私服でいいよと言ったのに、頑として制服で通し、授業中も指名されなければ発言しなかった。その後、ベルリンの彼女の授業を参観。まるで別人。1時間中、手を挙げっ放しだった。
後日、彼女に聞いた。「日本でのあの行動は何だったの」彼女曰く「自分でも不思議だったんですが、日本の学校って、発言しにくいというか、発言してはいけないような雰囲気があるんですよね」それだ!目立たないように自分を殺して生きる、それが自分の身を守る処世訓であることを子どもたちは知っている。悲しいかな。
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