イポーの鶏料理専門店
6日(金)曇り時々雨。ネルソン・マンデラ氏の死を悼む。経済的に貧しくとも、マンデラ、ガンジー、ホーチミンのような国民的英雄を持てる南ア、インド、ベトナムの人々は幸せだ。それに引き替え、心の貧しい、くだらない政治家しか持てない私たちは不幸だ。
なぜだろうと、ずっと昔から考え続けているが、なかなか答えが見つからない。3日前から地元新潟日報の連載記事「福島は問う」今日で3回目だが、福島原発事故後、新潟に自主避難している家族、地元に残った家族の夫婦や親子関係の変化を追うドキュメントだ。
別れて暮らすうちに離婚に至ったケース、親子関係がギクシャクしてきたケースだが、ここにもいかにも日本的と思われる人間関係が垣間見えて、私には理解し難い。子どもの被爆を心配しての自主避難なのに、「わがまま」とか「故郷から逃げた」と非難される。
こんな料理を自分で作れれば
私などは非難する人に向かって「余計なお世話じゃないの」「家族事情や個人の判断に属することじゃないの」と言ってやりたいほどだが、群れて暮らさないと安心が得られないムラ社会、個人の判断を尊重しようとしない、日本独特の排除の論理が優先している。
そうしたことは学校でも職場でも日常茶飯事に起きている。いじめはどこの国にもあることだが、日本のように社会問題化するほどではないし、日本独特のいじめとして、『出る釘を打つ』式のいじめである。個性の発揮を認めない、みんなと同じことを常に求める。
教師も文科省、教委、校長と上からの指示に慣らされ、自分の意見を言わなくなる。当然、生徒にも同じ行動を求め、はみ出しを認めない。親もそうして親になったので知らず知らず、それが常識だと思ってしまう。だから、結果としていつまでたっても自立しない。自分の意見も持たない。持っても表明しない。
こんな料理も
会社でもそれは同じで、自分の仕事は終わっているのに他人の残業に付き合ってしまう。年休という法律で保証された権利でさえ自分の意思で行使できない。「みんなに迷惑がかかる」と。挙句の果ては、管理職が嫌味を言ったりして権利行使を妨害する人までいる。
そうしたことが起こらないように国家や自治体の官僚が国民や市民目線で国民の権利を守り、安全安心を守るべきが公務員の仕事であり、義務なのに、政治家も法の執行を促し、官僚がおかしければ指導すべきなのに「国益」とか「公益」などとわけのわからない論理で国民を守らないばかりか、土足で踏み込んでくるのだ。
とどのつまりは、日本の民主主義は国民が闘い取ったものではなく、与えられたひ弱な民主主義である。「個人」が確立せず、国益などという言葉に簡単に騙される意識レベルであることは疑いない。この国が私の望むような国になるのははるか遠い先かも・・。
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