市場の風景1
21日(土)最近全国各地で一票の格差をめぐる裁判で裁判所が「違憲状態である」との判決を出して、いかにも画期的な裁判であるかの如くマスコミは取り扱っている。おかしい。なぜはっきりと「違憲・選挙無効」の判決が下せないのか。その理由を考えてみる。
日本の政治制度は真の意味で3権分立になっていない。最高裁の裁判官ですら、アメリカのように国会の承認を必要とせず、下級裁判官に至っては、最高裁事務局の推薦名簿に則って、内閣が任命する制度である。その最高裁事務総局が完全に官僚化してしまっている。
全国各地の高裁以下の裁判所の裁判官の任命権は内閣が握り、高裁、地裁、家裁所長が各裁判官の人事異動の権限や評価権を握っている。従って、裁判官が憲法第76条の「すべて裁判官はその良心に従い、独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される」と規定されている。
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しかしながら、この規定にに従って、判決文を書こうものなら、いわゆる世間でいう「出世」はおぼつかないどころか、左遷の恐れさえ出る。典型的な例が1973年、札幌地裁の福島重雄裁判官が下した「自衛隊違憲判決」である。この裁判で札幌地裁所長平賀健太が福島裁判官に手紙を送って圧力をかけたのだ。
在職中、私はこの事件を日本の「司法の独立」を問う典型的な問題として生徒に投げかけ続けた。福島裁判官は自分の信念を貫き、結局裁判官を辞するしか道はなかった。圧力をかけた平賀健太は東京高裁の裁判官に「栄転」となったが、当時のマスコミは「降格」の如く報じた。
日本の司法の独立が形ばかりで、国民の権利を守る仕組みになっていないことをマスコミは追求しようともしない。形の上では日本の裁判官は「心身の故障、定年、弾劾裁判による罷免」以外に職を失わない。報酬も一般公務員と違い、景気によって減額されない、と憲法で定めている。
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ところが、先に述べたように、肝心の異動、昇進は行政権に握られ、「良心に従った判決」が書けないようになっている。田中角栄政権で最高裁裁判官の弁護士出身5、検察出身5、裁判官出身5という比率さえ任命権で崩されたて、元駐米アメリカ大使が任命されることにより、以後内閣の思惑人事が主流となった。
そもそも日本の裁判所ほど権威主義的な国はないのではないか。私はシンガポールとアメリカの最高裁を見学したが、アメリカなど何の予約もなしに見学できた。その正面玄関に「法の下の平等」が刻字されていた。日本は修学旅行で生徒と共に入ったのだが、裁判官席に近づくことさえ許されなかった。外観も威圧的でいかめしい。
日本の裁判官席が一段高い席から弁護人や検察官、被告を見下ろす造りになっている。シンガポールやアメリカは違う。まして、日本の裁判所が「違憲判決」を下す件数たるや、数えるほどしかない。「統治権論」を理由に行政府や立法府におもねる判決が目立つ。これこそが、日本の裁判の実態を物語っている。
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