キャメロンの花々1
30日(月)雨時々みぞれgg。昨夜は親しい友人2人と飲んだ。飲み始めると、潰れるまで飲んでしまう悪い癖である。話題は多岐にわたったが、マスコミの中国、韓国報道の偏向ぶりもその一つ。国家間がどうなろうとも、国民の交流が一番大切であることで意見は一致した。
天皇が本当に大東亜共栄圏を信じていたと思わせる言葉を38年の国家総動員法施行直後に残している。「朕が将兵は(略)すでに支那の要域を戡定(平定)したり、然れども(略)」東亜永遠の安定を確保せんがためには、実に国民精神の高揚と国家総力の発揮とにまたざるべからず」
1939年5月に起きたノモンハン事件は満州国とモンゴル人民共和国の国境をめぐる関東軍とソ連軍の衝突であるが、昭和天皇は当初事件の拡大を満州事変になぞらえ「満州事変の時も陸軍は事変不拡大と言いながら、かの如き大事件となりたり」と侍従武官長に不安を漏らしていた。
キャメロンの花々2
しかし、日本側の損害が続出し、軍部はモンゴル奥地、タムスクのソ連軍飛行機地爆撃を計画し、奏上すると8月7日あっさりと「これが為、拡大することなければ、止むを得ざるべし」と許可した。結局、この事件は日本軍の大敗で、最後は火炎瓶で戦車に立ち向かう有様だった。
昭和天皇は組閣人事にしばしば介入しているが、39年、平沼内閣が独ソ不可侵条約の締結を読めなかったとして総辞職したあと、阿部信行内閣が誕生するが、天皇は陸相人事にこだわり「梅津か畑を大臣にするようにしろ。例え陸軍の3長官が議を決しても自分は許す意思はない」
結局天皇の意思通り、畑俊六が陸相となった。昭和天皇は日独伊三国同盟には常に批判的で、特にそのことが日米、英開戦に至ることを心配し、アメリカが石油やくず鉄の輸出を停止すだろうということまで見通していた。にもかかわらず、真剣にそれをやめさせようとはしなかった。
キャメロンの花々3
天皇は40年9月に「独伊の如き国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」と言いつつ、調印後には内大臣の木戸幸一に「神様のご加護を祈りたい」と述べたにとどまった。
その3日後にはさらに踏み込んで「帝国とその意図を同じくする独・伊両国との提携協力を議せしめ、ここに三国間における条約の成立を見たるは、朕の深くよろこぶ所なり」こんな発言を聞けば、政府や軍部は天皇に激励されたと思うのは当たり前ではないか。事実そうなっていく。
40年11月30日、杉山参謀総長が陸軍の編成について,上奏のため参内すると、泥沼化した中国戦線について、何点か質問「重慶まで行けぬか、行けぬとせばどうするか、南方問題(東南アジアへの侵略)は慎重に考えよ、南方作戦計画はできたか」南方作戦はやめよとは言っていない。
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