応援団まで登場
5日(日)あまりの快晴に久しぶりに歩く気になった。 学校が荒れると、教師たちがどれほど苦労を強いられるか、担任をした人以外にはわかるまい。ひどければ、精神的に参って、そのまま休職に追い込まれる場合すらある。私の場合は当時吸っていたタバコが2倍に増えた程度だったが。
あるツッパリ君が「俺を担任すると手当が出るんだろ」と吐かしたが、それは全くない。むしろ出費が増える。何よりイラつくのは授業の準備ができなくて、いい加減な授業になることだ。というより、不毛感と言ったほうがいいか。親も生徒も教えなければ、我々の動きは知らないだろう。
先日の同窓会で、某女生徒が「先生方のご苦労がわかったから、私たちはいい子にしていようね」と話し合ったこともあったという。中には「私たちはいい子でしたよねえ」と言う。我々が夜遅くまで会議をし、対応の仕方で激論を交わしていたなど、知る由もなかっただろう。
幹事役の生徒と
先日は当時暴れていた10人中4人の参加は確認できたが、何事もなかったかのように話している子もいれば、申し訳なさそうに握手を求めてくる子もいた。他のメンバーの消息も聞いてみた。みんなそれぞれ生業につき、自活していると聞いた。結構なことである。
この学校の荒れは某教師による暴力的な指導(部活)が原因であったことが、明らかになったが、その教師の頭の中には「俺がいた頃はちゃんとしていたのに、俺が出た途端に荒れた」と思っているに違いない。教師の言動が荒れや不登校生徒を生み出す例は案外多いのだ。
だからといって、教師の力量だけに頼る問題解決は本質を見誤る。私は日本的な学校システム、つまりは生徒も教師に対しても競争原理だけで成果を上げようとするやり方、文科省の方針に忠実な教師作りをやる以上、対症療法的になる。まずは学校の自立と裁量権の拡大、教師の自由や自主性を保障から始めなければならないのに、安倍政権は逆のやり方をやっている。
二次会参加の仲間と
日本的ないい面もある。16年も経って、先生を呼んで酒を飲むなど諸外国をみてもそう多くはあるまい。それだけ教師と生徒の絆が強いのだ。旧教育基本法に教育の目的の第一条に「人格の完成を目指し」があった、私は身震いしたが、教師が生徒の生活に深く関わることを求めていたのだ。
私が経験したシンガポール、タイ、マレーシア、スリランカでも対教師暴力等、まず考えられないという。もし、そういうことがあれば、即刻退学処分か保護者が学校に呼ばれて責任を問われることになろう。日本の法律もそのように定めているのに校長に処分権がない。
この子たちは最後は全員が教室に入り、卒業式もまともなかたちで参加し卒業していった。そして16年、再会を喜び合って花束まで頂いた。二次会にも30分ほど付き合って退出、その後は気の合う仲間3人で駅前で再び飲んだ。昔を思い出させてくれた一日だった。
海外赴任時に必要な予防接種や健康診断が可能な全国のクリニックを紹介しております。