モスリム国のキリスト教会
13日(月)朝気温は-1度。雪はない。この項も長くなってしまったが、出発までには閉じたい。昭和天皇は真珠湾攻撃についても、杉山参謀長を呼んで、「海軍の日時は何日か」「8日と予定しております」「8日は月曜日ではないか」「休みの翌日の疲れた日がよいと思います」と言った会話を交わしている。
「他の方面も同じか」「距離が相当に離れてくるので同時にはなり得ないと思います」他の方面というのは、太平洋戦争の作戦がマレー半島上陸、真珠湾攻撃、フィリピン攻撃の三方作戦だったからである。実際の時間は上記の順になり、真珠湾奇襲はマレー半島上陸の2時間遅れになった。
天皇は開戦にあたって、「挙国一致」の観点から、重臣たちが自分の前で議論するよう東条に話している。東条は機密保持を理由に反対しつつ「尚よく考えます」と退出。結局「このようになることはやむを得ぬこと」と認め、開戦後は「自存自衛のため」と激励した。
仏教寺院
英領ボルネオの占領により同地の石油が確保できたと報告を聞き「それは非常に結構だがすぐ使えるか」と質問。42年2月15日シンガポールが陥落した時の喜びようは「シンガポールを攻略し、もって東亜における英国の根拠を覆滅せり。朕深くこれを嘉尚す」
シンガポールに続き、ビルマのラングーン、ニューギニア上陸、ジャワ島上陸オランダを降伏させると、木戸に「あまり戦果が早くあがりすぎるよ」木戸は「竜顔殊の外麗しくにこにこと遊ばされ」と日記に記している。しかし、その直後、早くも米軍の日本空襲が始まる。
北アフリカのドイツ軍がエジプトを攻略したとの報告を聞いた天皇は「ヒトラー総統に親電をうっては如何」と木戸に話す。周囲は検討した結果、ヒトラーから親電が来た例はないとの理由で見送られた。私は当時のシンガポールの英字新聞で天皇が「ヒロヒトラー」と呼ばれていたことを初めて知った。
ヒンズーの土産物店
日本敗戦の転回点となったガダルカナル島、5か月に及ぶ激戦の末、多くの新潟県人を含め地上戦闘だけで25000人もの犠牲者をだし、11000人が撤退したことに天皇は「ガ島の撤退は遺憾であるが、今後一層陸海軍協同一致して作戦目的を達するようにせよ」と激励。
天皇は神風特攻隊についてどう考えていたのか。特攻隊の第一弾は43年10月25日のフィリッピンのレイテ沖で海軍「敷島隊」による。天皇は海軍軍令部総長に「お言葉」を贈り、「そのようにせねばならなかったか、しかしよくやった」軍部は特攻隊が認められたと受け止めただろう。
レイテ沖で大敗北を喫すると、天皇は当時の小磯首相に「この実相が国民に知らるるときは、国民は失望し、戦意の低下をきたし、これがまた生産増強に影響せざるや」と国民がミッドウエー以来の敗戦続きを知らされていないことも天皇は承知していたということである。
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