• 海外赴任時の車の売却はJCM

お気に入り一覧 お気に入り登録 お気に入り解除

NO2597 昭和天皇の戦争責任(13)

KLの電車内
3月10日 (90) 14日(火)快晴。歯医者で歯の点検後、つい天気に誘われて西川沿いを歩く。午後、手荷物を二つ羽田空港に送った。各自25キロぴったり。ほとんど家内の仕事。私は自分のリュック7キロ(2合炊きの炊飯器に他は本だけ)とパソコン。ケースには勿論ラケットと靴を入れた。

 細川元首相が都知事選に立候補を表明。「原発の問題は国の存亡にかかわる」との認識は重要だ。安倍にそれがない。タイのデモは私にはお祭りにしか見えない。地方のタクシン元首相の任人気は絶大だ。インラック現首相が倒れることはないとみる。権力の腐敗はこの国も同じだ。

 昭和天皇は大元帥の名に相応しく、軍部の作戦計画に一つ一つ関与し、自分の意見を伝えていた。サイパン島で3万の日本軍と1万の住民を失って敗れた時も、「資材をラバウルに用いてサイパンの防衛を厳にしなかったからで、海軍の作戦の誤りであった」と東久邇に語っている。

電車ホーム
3月10日 (88) 天皇は20年2月の段階で、何としても戦争をやめるという考えはなかったようで、近衛など重臣たちが軍の粛軍について進言しても「もう一度、戦果があげてからでないとなかなか話は難しいと思う」と近衛より消極的だった。3月9日の東京大空襲を経てなお、敗戦の決断はない。

 18日に都内を巡り、「胸が痛む。悲惨だね。侍従長!これで東京もとうとう焦土になったね」と述べた程度だが、流石に敗戦という現実を考えざるを得ず、小磯内閣が陸軍の反対で総辞職した後、天皇は77歳の2.26事件で重傷を負った。海軍大将の鈴木貫太郎に組閣を命じた。

 天皇が真剣に終戦工作を言い始めるのが5月の皇居に対する空襲で明治宮殿が焼失した後あたりからで、6月に東郷外相に「なるべく速やかにこれを終結せしむることが得策である」天皇は実現の見込みもない和平のソ連仲介に積極的で鈴木首相の推薦した近衛元首相を特使に決定。

インド人街の洋品店
3月10日 (65) ソ連は7月17日から始まるポツダム会談に参加、日本の申し入れを受ける余地はなかった。26日にポツダム宣言が発せられた。8月6日の広島原爆投下が原爆であることを知らされたのは8日で、その時「この種の武器が使用せらるる以上、戦争継続はいよいよ不可能になった」

 天皇にとって広島原爆よりソ連の対日参戦の方がショックだったようで、木戸に終戦決定を急ぐよう「戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思う」と。そして、翌9日には長崎に原爆が投下された。その日の夜半からポツダム宣言受諾を巡って御前会議が10日未明まで続いた。

 7月26日にポツダム宣言をすぐに受諾していれば、少なくとも広島長崎の原爆も新潟の長岡空襲もソ連参戦もなかったし、満州残留孤児やシベリア抑留の悲劇も避けられた。いや、もっと敗戦を受け入れる決断が早ければ、3月の東京大空襲も6月の沖縄の悲劇もなかったのだ。

続きを読む

このブログの最新記事

これで漏れ無し!海外赴任前の準備方法

チャートとチェックリストを使って、
海外赴任前の準備項目を確認しながら情報を収集して準備に備えましょう!

海外赴任準備チェックリストを確認する

書籍版のご案内

海外赴任ガイド 到着から帰国まで

書籍版「海外赴任ガイド」は各種ノウハウや一目で分かりやすい「海外赴任準備チャート」などをコンパクトな一冊にまとめております。海外赴任への不安解消に繋がる道しるべとしてご活用ください。

書籍版の詳細

プログライターの方

海外赴任ブログを登録する

あなたのブログを登録してみましょう!

プログライターの方

海外赴任ガイドのSNS

Twitter アカウントをみる

たいせつにしますプライバシー 10520045