角田山登山口の桜
14日(月)快晴。午前中は転入届や様々な用があって、午後から角田山に登る。登り始めたら、膝に違和感。CHのテニスコートがアスファルト?コートで膝に負担があるのは感じていたが、山登りで発覚。登っている間に慣れてきた。テニスの筋肉とは違うのだ。
人気の山で、雪割草やカタクリの花を求めて県外からも人々が集まる。そのため、7つある登山道の内、私が一番愛用している五ケ浜コースは下り専用で登れない。やむを得ず「ホタルの里コース」から登ったら、1時間50分もかかってしまった。下りも1時間半も。
登りながら、日本人的なものの考え方について深く考えた。私が西洋かぶれになったのか、日本人なのに日本の在り方に疑問を感ずることがますます強くなり、困っている。それは、安倍政権が日本は全てにおいて世界に優れているといういい方への反感でもある。
登山口にある平和記念碑
日本の素晴らしさについては、安倍如きに言われなくとも十分認識している積もりである。今も鈴木章生著・「江戸の職人」という本を読んでいるが、日本人庶民の生き方として、教育、生活、技術など日本人が築き上げた技術や文化の歴史にあらためて誇りを感じる。
日本が幕末の変革を経て近代国家の仲間入りをしたことは、歴史の必然であったが、それを可能にしたのは世界に例を見ない江戸時代の庶民の自由な教育や文化水準の高さにあったと私は見ている。明治維新の改革が正しければ、日本はもっとまともな国になった筈である。
私の尊敬する基督者・内村鑑三氏は明治の改革を評し、体は近代化したが、頭は封建制のままという趣旨のことを書いていたが、その残滓は今もあると思っている。西洋を受け入れるということは「人間は生まれながらにして自由・平等である」を受け入れることだ。
カタクリの花
明治政府は天皇を頂点とする「中央集権国家」を理想として掲げ、それを実現する官僚機構を作り上げた。敗戦はそれを根本的に変えるチャンスだったのに、アメリカの思惑で不徹底に終わり、今日に至っている。安倍政権はもう一度戦前体制を取り戻すと。
先日日展理事を巡る問題が持ち上がった。日展に限らず、茶道や華道、歌舞伎などの家元制度。相撲界の封建制、小さなことを上げれば、中学校の新体操などクラブ制度の問題など、およそ公平とか正義とは無関係な因習や封建制が色濃く残っているのが実態だ。
安倍政権のおかしさを追究することは、日本的なものの考え方の是非を問うことになるという気がしてきた。日本の主張が世界的に見て普遍性を持たなければ、再び日本は世界で孤立し、独善的な道を歩むことになりかねない。二度と同じ過ちを犯してはならない。
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