ルワンの自宅前で
29日(木)快晴。外は暑いが、家の中は風が吹き抜け快適だ。読書に精を出す。31日の宮城県で行われる森の長城プロジェクトの植樹祭に出かけるので出来るだけ書き溜めたい。マスコミが報じない泉田知事の言い分をもっと紹介したいが、話を教科書問題に戻したい。
川井訓導事件で修身の教科書を使わないことを理由に処分されたわけだが、当時の「修身書」はどんな内容だったのか。1918年第三期国定教科書でその4年生用「尋常小学修身書」巻四の巻頭に教育勅語全文、第一課「明治天皇」には「常に人民を子のように、おいつくしみになり、これと苦楽をともにあそばされ・・」
27課には「よい日本人」として、「天皇陛下(大正)は明治天皇のご意思をつがせられ、・・われら臣民をおいつくしみになります。われらは常に・・忠君愛国の心をはげみ、皇室を尊び、法令を重んじ、国旗を大切にし、・・日本人には忠義と孝行が一番たいせつなつとめ」
ルワンの父と兄
時代が進み、満州事変後の1933年(昭和8年)の「高等小学修身書」巻一が手元にあるが、これには教育勅語は勿論、戊申詔書、国民精神作興に関する詔書を載せている。本文は第一課我が国、愛国、家、孝行と徳目が続く。全ての結論は天皇陛下のためにあれと説く。
戦後GHQは国史・地理とともに修身を軍国主義を煽ったとして禁止した。戦後長らく政権を独占した自民党は早い段階から「修身」の復活を目論み、58年(昭和33年)私が小6の年に学習指導要領に書き込んだ。しかし、私の中学3年間、授業を受けた記憶はない。
先生方は当然反対運動をやり、形の上で導入されても授業をやる教師はほとんどいなかった。私の担任はいつも学級レクにあて、みんな喜んだ。そうは言いながら、教師の中には市民道徳は必要だとして、独自の資料作り、討論学習など工夫を凝らす動きもあった。
天ぷらとカレーと
導入からおよそ10年後に私は教師になった。文科省が望むような徳目をあげての道徳の授業をやる気もなかったし、やった覚えはない。いじめがあれば、その解決のために使ったし、個人面談や読書の時間に充てることも多かった。全く無駄な時間でもなかった。
それが気に入らない文科省は7億円もかけて「心のノート」(副読本という位置づけ)を全国に配り、道徳教育のマニュアル化を進めようとした。それも不評で、安倍政権は道徳の教科化を打ち出した。そうなれば、当然教科書をつくり、評価もするということになる。
道徳を教科にすれば、いじめがなくなると本当に考えているとしたら、話にならない。戦前の「修身」が形の上で成り立っていたのは、教師が親や生徒に対して絶対的な存在であり、社会全体としても強制力を持っていたからだ。安倍政権はそこまでやる気だろう。
続きを読む