4.5mの田老町の堤防
5日(木)曇り。田老の堤防内にも数十棟の仮設が見えたし、海岸沿いに走っていると、至る所に仮設住宅が見える。カメラを向けることも憚られるような環境である。仮設は2年を想定して建てられているというが、3年経っても、移転の目途さえ立たない人が多い。
今回、もう一か所宮沢賢治記念館を訪ねたかった。過去に何度か訪ねているが、リニューアルされたニュースを聞いていた。それに震災後賢治が見直されているとの話もある。賢治は1896年の三陸地震津波の年に誕生し、1933年の三陸沖地震の年に亡くなっている。
この震災でなぜ賢治の言葉が人々の心を打ったのか。特にあの有名な詩「雨ニモマケズ」が多くの人を励ましたという。賢治はガンバレとは言っていない。「一日に玄米四合と少しの味噌と野菜があればいい」を読み、被災者はが避難所の時はそうだったと。「東に病気の子どもあれば 行って看病してやり」
町を守るはずだった
「西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 褒められもせず 苦にもされず そういうものに私はなりたい」この行くという言葉に背中を押された人も多いという。自分のことを犠牲にしてでも他人のために生きた賢治の生き様そのものが人々を励ましたのだ。
わずか37年の生涯であったのに、なんと多くの宝物を私達に残してくれたものだと改めて思わされた。イーハトーヴ館、童話村、花時計の庭も初めて見学できた。近くに新渡戸稲造記念館もあったので見学してきた。今の政治家がいかにも小さく見えたことだった。
被災地を巡るのは、リアス式の地形に加えて、道路状況も悪く、時間がかかり花巻でさらに一泊することになった。花巻に出る際、内陸の北上高地を通ったのだが、初夏のきれいなブナ林はまるでトンネルで、日本の豊かな森を実感した。これが日本の原風景だったのだろう。
田老町の仮設住宅
この森を汚したのは誰か。利益優先のために人の命も豊かな森も犠牲にして厭わない「我欲」の人々だ。その自覚のない元東京都知事・石原慎太郎は何を言ったか。震災から3日後「日本人のアイデンテテイ―は我欲。この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」こんな人物を数か月後に再選させる都民、国民!この民度の低さに向き合おう。
この旅を通して何度も考えた。三陸の惨状は瓦礫の片づけが済んだだけで、復興というには程遠い現状だった。でも、いつかは必ず復興できると信じたい。しかし、帰途暗くなって通った飯舘村は暗闇の中。原発に何の関係もなかったこの村がこのありさま。いまだに14万人が故郷に帰還できない悲劇を招いた原発。これを今後も動かし、輸出も進めるという狂気の政府。それを最大の課題とも考えず、やれ景気だ、円安だ、株高だといかにも生活が豊かになっていくような幻想を持たされて安倍内閣を支持し続ける国民、ああ!
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