まだ新しい山元町小学校
9日(月)快晴。朝の散歩の際、外科で教わったタオルを使って腕の屈伸をしながら歩く。あるいは後ろ向きで歩くとか、なかなか効果的で楽しい。何時も出会っていたおばあさんの姿が見えなくなったり、きれいに耕されていた畑が荒れていたりするのは悲しい。
今朝は教師の評価はどうあるのが正しいのか、ずっと考えながら歩いた。教育ほど、数値化になじまない職業は無いと思うのだが。例えば、あるクラスから5人もの生徒を一番の有名高校に合格させた担任は一人しか合格しなかったクラスの担任に比べ優秀だと言えるか。
社会科の期末テストで私が教えたクラスが他クラスより平均点が高かったことをもって私の教え方が優れていると言えるか。私のクラスでいじめられっ子が3人でた。隣のクラスは2人だった。私のクラスづくりが間違っていると言えるか。いずれも断定できるほど単純ではない。
宮澤賢治記念館
生徒は物ではない。前号で紹介した車のセールスでの売り上げ台数で社員を評価することに異議を挟む人はいまいが、クラスの個々の生徒は私が選んだわけでもないし、生徒が私を選んだわけでもない。クラス編成で成績を出来るだけ均等になるよう配慮はするだけである。
よく言われるように、教育の成果は何年先に表れるか分からない。生徒だって今すぐに目に見える成果を期待して私の授業を受けているわけではない。何も覚えていないけど、熱意だけは伝わったとか、「寿司屋の湯飲みはなぜ大きいか」「9条をはじめ憲法の条文を暗記させられた」授業だけは覚えている。
その程度のものである。私の生徒の作文にもあったように、生徒は知識よりも「生き方を教わった」とか「どう生きるべきかを考えた」「自分の意見を言いたくなった」等、知識を身に着けること以上の喜びを感じてくれる、それが嬉しかったし,やり甲斐だった。
イーハトーヴ記念館
それを校長が学習指導でどんな数値目標を自己申告させるのか。クラス平均を70点以上?半数以上の生徒が発言?宿題忘れをゼロ?そんな目標に教育的意味があるのか。私が明日の授業の準備のためにどれだけ本を読み、自作資料に時間をかけるか校長は知らない。
評価される側から言えば、評価されて励みを受け、自分自身の向上に繋がらなければ意味がない。あなたの弱点はここですよと指摘されて、納得できて、次の改善に繋げてこそ評価の意味がある。校長が秘密裏に評価し、開示もしないのでは改善のしようがない。
私は生徒に「楽しくて、よくわかったよ」と言われることが励みにもなり、明日の意欲にも繋がる。教師の評価は生徒だけでいいとは言わないが、少なくとも生徒の評価の入らない評価は正しくない。生徒が親はふさわしくないと言った理由は内申書があるから、親は内申書を上げようと付け届けをすると。笑ってしまったが・・。
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