我が家のオダマキ3種
12日(木)曇り。腕をかばいながらも週2回のテニスだけは何とかやれている。昨日の退職者の会の話題は安倍政権一色だった。最年長で88歳になられるF先生(新潟県内でレッドパージにあった5人の教師中、ただ一人の生き証人である)は怒りを込めて緊急提案。
衆院本会議で可決された地教行法(教育委員会を首長の支配下に置く改悪)は独占企業の要求に基づく異常な競争主義の導入は戦争をする国づくりを目指すものである。これも衆院で可決された国立大学法人法の改悪も大学の自治を破壊するものとして廃案を要求する、と怒りを込めて訴えられた。
この国立大学法人法の改悪は現在審議・決定機関である教授会を学長の諮問機関にしようとするもので、石原が小中高学校の職員会議を校長の諮問機関・補助機関化しようとした問題と軌を一にするもの。何が何でも上位下達の命令で学校組織を動かしたいという露骨な意図がみてとれる。
我が家のオダマキ3種
石原都政が「破壊的教育改革」で最初に手を付けたのが就任の半年後の「都立高校改革推進計画」であり、ほぼ同時期に出された日の丸・君が代の指導についての通達である。それを具体化するために、先ず、学校管理運営規則が改定された。これが現場を混乱させた。
改悪の中味を紹介する前に、それまでの校長と職員会議の関係の概略について説明しておきたい。校長という職名が登場するのは明治14年以降1880年代で、自由民権運動家の中に教員が多かったために、それを統制する必要から生まれたという歴史的経緯がある。
戦後はその性格が否定され、文部省が出した「新教育指針」によれば「校長や2,3の職員で独り決めで事を運ばないこと。全職員が共同の決定に従い、各々の受け持つべき責任を進んで果たすこと」とされ、管理職手当もなかったから、職場の選挙で選んだ学校もあった。
我が家のオダマキ3種
それがすべて崩されて行くのは1956年の教育委員会が公選制から任命制に代わって以後のことである。その後、教頭の法制化、主任手当の創設で中間管理職をたくさん作り、職階性を導入し、命令系統を作り上げることによって職員会議も形骸化の方向に進む。
それでも私が教師になった67年頃は管理職は校長だけで、職員会議では校長も含めて侃々諤々の議論が戦わされ、多数決で校長もそれに従うという状態だった。学校には生徒指導や学習問題をはじめ様々な問題を抱え、校長一人の判断で解決できるようなものでもなかった。むしろ、それによって助けられる場面も多かったのだ。
そしていつの頃か校内に運営委員会とか学年主任会なる組織が作られ、中間管理職だけで大筋を決め職員会議では説明し、了承という形が多くなっていく。それでもまだ私が退職した04年段階でも提案事項に対して意見を言う自由はあった。都はそれを全て否定することになる。
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