登山道も整備され
9日(火)快晴。今朝の日報一面の見出しは「昭和天皇実録を公表」「大戦『嫌な思い出』」である。内容に特別新しいことが出てきたわけでもないのに一面で扱うようなニュースなのか。朝ドラが私の誕生年(43年)に入り、いよいよ悲惨な日々が続く。「嫌な思い出」では済ませる神経が私には理解不能。
マスコミはこのニュースをどんな視点で取り上げようとしているのかが分からない。天皇は平和主義者?軍部に抗しきれなかった?東京新聞でさえはっきりと批判する立場ではない。昭和天皇の戦争責任を問うことなしに、戦後の総括は終わらないし、永遠に続くこを肝に銘ずべし。
敗戦直後の8月29日木戸内大臣に向かって「(自分が)退位することによって、戦争責任者の連合国への引き渡しを取りやめることはできないだろうか」と語ったと言うが、天皇は自ら退位を表明したことは一度もない。天皇自身の責任感というのはこの程度で、極めて甘い。国外逃亡の意思がなかっただけましだ。
何と言う花だろう
退位については、戦争中に東久邇宮や弟の高松宮からも昭和天皇に勧めた事実があるが、天皇は聞く耳を持たなかった。それどころか、高松宮には強い不快感を側近に語っている。太平洋戦争の開戦についても海軍に対し「捨て鉢の戦にほかならず誠に危険」と言いながら裁可した。
日報の見出しの如く、天皇が「軍部の専横に不満」だったことは疑いようがないが、さりとて、2.26事件の時のように体を張って軍部の動きを止めようとしたことはその後一度もなかったのではないか。それどころか、南京陥落の報告を受け「勇猛果敢なる追撃を行い、速やかに首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ」と閑院宮参謀総長に。
昭和天皇を平和主義者であり、戦争の責任は軍部の専横にしたい政府やマスコミの姿勢は戦中戦後を通じて変わらない。45年11月の閣議決定では「天皇は憲法運用上の慣例に従い、大本営、政府の決定を却下できなかった」としているが、全くの詭弁で嘘である。
日本にもこんな派手な蝶が
この閣議決定が事実なら2・26事件の際、あれほど前面に出て鎮圧の指揮をとったことをどう説明するのか、天皇の強い意志がなければあのクーデターは成功していたのは疑いない。31年の柳条湖事件(満州事変)について、国連調査団の満州入国について、軍部が中国代表の入国を拒否しようとした時、昭和天皇の鶴の一声「入れてやれ」で決着したことをどう説明するのだ。
今回公開された「天皇実録」は宮内庁が過去の明治、大正天皇の実録に倣って編集したもので、いわば官側の身内の記録で、とても「正史」とは言えない。天皇に都合の悪い話は書かないのが基本だ。識者もそれを指摘している。例えば作家・保坂正康氏は「ご都合主義」だと。このほぼすでに公開済みの記録を基にして編集された「実録」でさえ、未公開資料がまだ40件以上もあるという。その未公開部分こそ知りたいのに、公開する気はあるまい。菊タブーはまだ生きているのだ。情けない国だ。
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