紅葉も始まって
12日(日)快晴。経産省の電力会社の動きに呼応したかのような「太陽光認定一時停止へ」のニュースは許しがたい。原発の再稼動を見越した動きであることは疑いないからだ。送電網の能力云々などと言っているが、こんなことは最初から分かっていたことである。ただちに経産省が反応するあたりがグルだ。
事故後問題になった西日本から東日本へ電力を送れない仕組みの解決もその後どうなったのかの報道もない。マスコミに、政府や電力会社の発表を報じるだけではなく、福島の現状や再生可能エネルギーの実状等を継続的にチェックして、国民に提供する姿勢がない。
匿名を条件に語ったというその人は父親が面長(村長)だったので、その傍らで聞いた話である。戦後、この家族は村を捨て、家族は離散に追い込まれたという。村人に恨まれたということだ。彼が名前を伏せたがったのは、面長の家族であることを恥じたからだという。そこに追い込んだ総督府にこそ責任がある。
峠の神社の後ろが三国山
千田氏の「朝鮮総督府から命令があったのは何年の何月でしたか」「昭和16年5月か6月だったと思います」駐在所の警官が訪ねてきた直後、父は頭を抱えていました」「若い女性を集めろと言われたのですか」「そうです」「慰安婦にするためと言ってきたのですか」
「そこまでは知りません。それに慰安婦という言葉は韓国にはありませんでした。確か軍隊で兵隊さんの世話とか後方で洗濯をする、などの仕事をするための女性と言われたようです。父は分かっていましたから同胞として悩んだと思います。拒むことも許されません」
「それでお父さんはどうされましたか」「日本内地でいい仕事がある、どうだ娘さんをやらないか。娘さんから仕送りしてもらえるだろう。そんなこと言って勧誘して歩いたようです」「村中の家をですか」「いえ、それは・・」「つまり子沢山で貧しい家ですね」「そうですね」
峠を通過した著名人
組織的に大量に女性が集められたのは43年(18年)からで、第9代陸軍大将・阿部信行総督が赴任してからだと。“挺身隊”という名の下に集められた。12歳以上40歳未満がその資格であった。全てが慰安婦にされたわけではない。中年女性は軍需工場に送られた。
当時学徒兵で参戦した韓雲史氏(作家)は「第一線部隊に女子たちが引っ張られていった。一個小隊に二、三名ずつ配属され,“天皇の下賜品”として飢えた兵士たちのオモチャとなり、朝になればまた違う部隊に追われていって同じ屈辱をあじわねばならなかった」
ソウルで慰安婦たちが集められた場所も確認されている。当時は日本経営の百貨店で、総督府が接収した美都波百貨店だと。千田氏の本からの引用はこれで終わりにする。読むのもつらい。興味のある読者は三一書房新書、千田夏光著「従軍慰安婦」(正・続)をお読みいただきたい。
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