スリランカのコスモス3月
15日(木)曇。パリでのテロ事件、それに抗議する欧州各国のリーダーや庶民による「表現の自由を守れ」というデモには健全なものを感じたが、一方で各国の右翼団体による移民排斥運動は日本における在特会によるヘイトスピーチと軌を一にする危険な動きだ。
そもそも、この動きはイスラム国やアルカイダなどというイスラム教の過激派による反欧米闘争によるものだが、怖いのはイスラム教徒全体が過激視され、排斥の対象となることである。世界で16億人といわれ、キリスト教徒に次ぐ信者数だけに無視できない事態だ。この問題を考えてみたい。
私は無神論者で宗教の知識は授業に必要な程度の3大宗教やその他の宗教に関する大雑把な理解しかない。個人的には学生時代、人生に悩み、2年間ほどキリスト教の教会に通い、東京新大久保の内村鑑三氏の弟子が主宰する聖書研究会に通って聖書を読んだ程度である。
スリランカの高原
結局、確信が持てないまま、洗礼を受けるに至らず、社会の改革運動に目を向けることになった。その過程で出会ったのがカール・マルクスの「宗教はアヘンである」という言葉だった。私はアヘンだとは思わなかったが、マルクスの言葉を読んでそれを確認できた。
マルクスは「ヘーゲル法哲学批判・序説」の中で、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸に対する抗議である。宗教は悩める者の溜息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と書いた。
私の宗教に対する理解はこの「宗教は悩める者の溜息」であり、だから、イエス・キリストが言った「健康な人に医者はいらない」という言葉に通ずる。マホメットにせよ釈迦にせよ自分の教えが絶対正しいとは主張していないし、まして強制などしてはいないのだ。
スリランカの思いで
ベトナム建国の父で共産主義者であったホー・チ・ミンが「イエスもマホメットも釈迦も、マルクスも今ここに一堂に会すれば親友になれるだろう」という趣旨のことを書いた趣旨はこのことであろう。宗教の必要性を認めながら、排他的であることを否定したのだ。
私の見るところ、各宗教はそれぞれの創始者の教えを外れているとみるのが正しいのではないか。基督者の立場でそのことを主張したのが無教会派クリスチャン・内村鑑三氏だった。内村はイエスは教会など建てなかったし、まして教会組織の中の司教や司祭などの階級を否定した。
無神論者の私から見ると、イスラム教は理解し難い面(一夫多妻、女性差別、一日5回の祈り、豚肉や酒の禁止等々)がたくさんあるが、果たしてマホメットの教えと言えるかどうか、極めて疑わしい。まして棄教者を死刑にする国さえあるのはマホメットの教えに反するのは明らかだ。 つづく