セイロンテイ経営者の館 16日(金)曇。6000歩く。歩きながら友の冥福を祈る。高校の同級生で新潟日報の専務まで勤めたK君の死である。年末に4人の同級生で駅前で飲んだばかりだった。私の投書を喜び、「どんどん書いてくれ」と。今度会ったら「政治的な投書がボツにされているぞ」と文句を言おうと思っていたのに・・・。
私のところに時々Change Orgから情報が入る。パリで襲撃に遭ったスーパーで機転をきかしたマリ出身のイスラム教徒が15人のユダヤ人を冷蔵庫にかくまって救ったのに、警官が犯人と間違え、15時間も手錠をかけ続けたと。イスラム教が悪いわけではないと。
マルクスが「宗教はアヘンである」と書いたことを曲解して共産主義は宗教を否定したと反共攻撃に利用された。実はヘーゲル左派が宗教批判をしたのに対してマルクスは「いやいや、宗教にみんながすがるのは現実が悲惨だからで、宗教はその現実の裏返しに過ぎないのだよ」と答えたという。
イギリス人とバラマルクスやエンゲルスは、時代ごとに宗教の進歩的役割をよく論じていると。例えば、エンゲルスは「ドイツ農民戦争」で中世の農民戦争がいかに宗教の形をとった進歩的な運動だったかを論じているという。では現代の旧ソ連、中国、ベトナムに宗教の自由はあるか。ノーである。
私は中国で何か所もの寺院を見学したが、寺院の入り口に憲法の宗教に関する条文が掲げてあり「信仰の自由」がうたわれている。現実はどうかと言えば、共産党を批判しない限りの自由だ。チベットを見ればわかる。ベトナムでも教会と政府(共産党)との対立は今日まで続いている。
今ある社会主義国で「宗教の自由」が完全に保証されている国はないだろう。明らかにマルクスやレーニン、ホーチミンの意思に反している。とはいえキリスト教もイスラム教も創始者の意思に反し、各教典の解釈を巡って数十、数百の宗派に分かれて対立している。
スリランカの思い出 宗教の中で最も寛容的なのは仏教だろうか。とはいえ、日本の歴史の中でも浄土真宗と日蓮宗の対立が武装闘争に発展した例などはある。しかし、欧米や中近東に比べれば、穏やかなものだった。第一、家の中に神や仏、時によっては観音様まで祀る国はない。
内村鑑三は札幌農学校時代にクリスチャンになって以降、学校の行き帰りに寺や神社、観音様や地蔵様に手を合わせるのが苦痛で、ある場所を避けて通ったと何かに書いていたが、一神教徒にとっては、いかにも節操のないように見えるらしい。でも今の宗教対立を見るにつけ考えさせられる。
私は内村鑑三にかぶれ、今でも尊敬する人物の一人だが、氏は教会(組織)がキリスト教を堕落させたと考え、自分が主宰する新宿の自宅における聖書研究会(生徒に南原繁や矢内原忠雄等)でさえ、メンバーが増えると解散し、また新たにスタートする徹底ぶりだった。神に祈るのに声を上げたり、人前で祈るのではなく、心の中で静かに神と対話するのが正しいと。
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