マドリード市内
14日(土)曇り時々晴れ。櫻井よしこ等自由主義史観論者たちは、過去と向き合おうとしないどころか、1931年に始まる日本の中国侵略からアジア太平洋戦争を当時の呼称である大東亜戦争と呼び、欧米のアジア植民地から原住民を解放するための正義の戦いであったと主張している。
私のシンガポールの教え子の一人は「それが本当なら、どんなによかっただろう」と書いた。その意味は、解放軍なら、解放された人々は歓呼して日本軍を迎え、今も感謝されているということになる。当初、インドネシア等でそうした風景があった事実はある。それが間もなく失望に変わる。
自由主義史観論者の一人は占領時シンガポールで家々に掲げられた写真を持ち出して、このように歓迎されたと論文に書いた。その写真は私が在任中の1983年版の中学校の歴史教科書(英語版)に載っていたが、その説明欄には、ケンペイタイが日の丸を配り掲揚させたと。
マドリード市内 解放軍などでなかったことは、一年も経たずに明らかになる。侵略者というものは自分の国の地名や名前を残したがるものだが、そもそもシンガポールはその前の侵略者であった英国がつけたものではなくマレー語に由来する。日本は昭南市とし、山下通りや日本通りも作った。
私は英国による植民地支配を擁護する気など更々ないが、シンガポール支配は南アやインド支配に比べれば、日本の韓国支配と台湾支配ほどの差があるかもしれない。シンガポール大学をはじめ、植物園、博物館など今も残る支配の遺産だ。日本軍は学校を料亭に変え、文化財を破壊した。
それどころか、昭南神社を建て、キリスト教徒にも礼拝を強制し、君が代、日の丸の強制はもちろん、日本語も押し付けたのだ。日本語教師養成の為日本語学園を創設し、海音寺潮五郎、中島健蔵、井伏鱒二らが教鞭をとった。中島、井伏は戦後自己批判した。
マドリード市内
昔も今も70%以上を占める華僑が祖国である中国大陸を転戦してきた日本軍に好意など抱くはずもない。献金強制、軍票の発行で爆発的なインフレを引き起こし、虐殺事件まで起こしたとなれば、解放軍などと歓迎されるはずもないことくらいわかりそうだが。
そもそも日本は31年の柳条湖事件(満州事変)の時点ではシンガポールなど東南アジア侵略まで想定してはいなかった。国民には当時首都であった南京を陥落させれば戦争は終わると宣伝していた。中国戦線の行き詰まりの打開のための東南アジア侵略だった。
これもまた、自由主義論者たちはABCD(米英中蘭)包囲網によって戦争に追い詰められたと主張しているが、これらの国の存在は侵略前からあったし、アメリカはともかく、英蘭にその余裕すらなかったのが実態だろう。彼らは日本の戦争を正当化するために利用しているのだ。