マドリードの肉屋
19日(木)曇。しんぶん赤旗本吉真希記者の廠こう虐殺事件の報告の一部。廠こうは南京から揚子江を上流に遡った地点にある農村である。全伯安さん(88歳)当時16歳。「空襲で粉々にされた船の板や死体、衣服が川いっぱいに散らばった。死んだ人の血で川は真っ赤になった」
川辺には現在「血水河遺跡」の碑が建っていると。黄暁山さん(88歳)「自宅に戻ると日本兵が国民党軍の兵士16人を捕まえていた。その16人の首を軍刀で切り、殺害した。翌10日昼ごろ、日本軍は隣家の男性と黄さんを捕まえ、エンジン付きの小型ボートに乗せた。
途中、20歳くらいの女性を捕まえ、兵士4人が強姦し、川に投げて殺した。黄さんは『家に帰りたい』と懇願、上陸を許されたが、しかし、そこでは中国人(一般住民)約300人に日本兵が300丁の機関銃を向けていた。逃げようとしたところを機関銃が火を噴いた」
街中のキヨスク 郭鹿萍さん(89歳)「7日朝、父親と3キロ離れた村に逃げた。しかし、その村に日本兵13名が来て郭さんら40数人の男性を10数人ずつ3組に分け、上着を脱がせた右腕を縄で縛ってつないで、次々と刺殺。夕方意識が戻ってみると、血塗られた死体だらけ。父親も」
女性への性暴力も。江糸(下の小がない)妹さん(昨年96歳で逝去)は「家に押し入ってきた日本兵に服を脱がされ、隣の家に連行された。日本兵はその家の16歳の少年に江さんを強姦するよう命じた。少年は恐怖で何もできなかった。日本兵は江さんの下半身に棒で暴行を加え続けた」
抜粋しながら、私が調査したシンガポールの虐殺方法とよく似ていることに気付いた。10数人ずつ縛るやり方や機関銃で掃射することなど。違うのは川と海の違いだけだ。かろうじて生き延びた人はその場で気絶した幸運だけ。シンガポールではとどめを刺した。
マドリード市内 この虐殺現場の調査は72年に始まって今も続いているという。子供の遺骨も出てきており、聞き取り調査も行われているという。その結果、ここの犠牲者は民衆も含め、3万人と推計されていると。性暴力の犠牲者は2000におよび、65%の女性が殺されたとみられると。
この廠こう事件にかかわる記念碑等は82年の教科書問題を経て記憶継承のために建立されたという。日本が安倍政権のように事実そのものを否定すればするほど、昔の記憶に火が付き、次々と新しい事実や証言が出てくるということだ。人数の問題ではないのだ。
天皇の軍隊がそんなことをするはずがないなどという何の根拠もない盲説を振りまく人々は現地に行って調査するなり、現地の人たちの話を直接聞いたらいい。ここに紹介した話は最も新しい証言で、これに類する証言や研究などその気があればいくらでも読める。