ポルトガルの思い出
8日(日)今日も快晴。孫が帰省してくるので、大好きな蕗味噌を食べさせるべく蕗の薹探し。川沿いの土手で春を見つけた。本人のリクエストはコロッケ、酢豚、おから、フキと筍、麩の煮物、鰯のぬた、ホタルイカと生わかめの酢の物。春を呼ぶ料理が揃った。
矢部氏の著書に紹介されている映画監督オリバーストーンの言葉「日本は偉大な文化を持つ国だ。映画や音楽、食べ物、すべて素晴らしい。しかし第二次世界大戦後の70年を見て、みずから本当に何かを成し遂げようとした日本の政治家や首相を私はただの一人も知らない。同じ敗戦国のドイツには存在したような、平和でより高潔な世界をつくるために戦った政治家を一人も知らない」(13年8月6日広島原水禁世界大会)
私は在職中、戦後史は60年安保まで教えるように努力してきたが、全くの駆け足だった。矢部氏は日本の学校が戦後史を教えないのは「昭和天皇の戦争責任」と関係があるという。日本占領に果たした昭和天皇の役割を評価する氏だが、戦争責任論は別だという。
ポルトガルの思い出
米英に対する宣戦布告書を自分の名前で出した昭和天皇が自分は本当は戦争したくなかったなどということは通らない。戦争責任を問われないということはあり得なかったと。天皇の戦争責任についてマッカーサーの副官でフェラーズが「ヒロヒトの身柄の処遇」で。
「ヒロヒトは、戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰をまぬがれない」と書かれていたと。これはアメリカのみならず、連合国の常識だった。にもかかわらず、同じフェラーズが天皇の免責を主張するようになったのは、天皇の命令によるスムーズな武装解除を評価したからだ。
ポルトガルの思い出
従って、その後の日本占領政策は天皇を最大限活用する方向で進むことになる。ミズーリー号上での降伏文書への署名も本来なら最高司令官である天皇が出向いて署名するはずだったが、天皇が政府や軍に命令する形をとったのも、その効果を計算した上でのこと。
逆に言えば、天皇が責任を負わないことを天皇の名において動いてきた政府、軍部、司法をはじめあらゆる層にあの戦争に対する責任を負わなくてよいと宣言したようなもので、実際事態はそのように動くことになり、戦後の無責任体制の法的、倫理的根拠となった。
第一回のマッカーサー・天皇会談で世上では天皇が「わが身はどうなってもいいから、国民を救ってほしい。私は絞首刑になってもよい」と述べ、マッカーサーが感動した話になっている。これも怪しい。事実は「宣戦布告の前に真珠湾攻撃をしたのは東条の責任だ」「だからと言って、自分の責任を回避つもりはない」これはジョージ・アチソンの国務省宛の極秘電報の内容だという。外務省はこれを秘密にした。東条の裁判での発言は封じられた。
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