寺尾中央公園のチユーリップ
23日(月)シンガポールの初代首相で現在のシンガポール繁栄の礎を築いたリー・クアン・ユー氏が死去した91歳だった。やはりこの人については書いておきたいことがある。私が1981~84年の間、シンガポール日本人学校に在任中、もちろん、当時の首相だった。
当時、シンガポール日本人学校は世界最大の日本人学校で生徒数約2000人(小学校1600名、中学校400名)で、日本人の数は2万名を超えていた。にもかかわらず、当時日本人のマスコミは公式の取材は許されておらず、朝日新聞の松井やより記者が最初だった。
現地日本人会が発行している機関紙「南十字星」にリー氏の体験談が載っていた。62年の血債問題が持ち上がった時のインタビューである「私の妻の叔父も義勇軍の一員で、日本軍の銃火に生命を失った。私が1942年、もう少しで虐殺されそうになったことなど、日本政府当局者も知らないであろう」と切り出し、
誰の配慮か経路の帽子が
「ジャラン・ブッサールの収容所で検証を受け、並んで出所を待っていると、守衛の日本兵が私の体格を見てトラックに乗ることを命じた。日本人の為に労働力を提供することであったらしいが、そのトラックが仕事場に行くものとは見えなかった。荷物を置いていた私の園丁の部屋に帰り(リーは忘れ物を口実に)、一歩も出ず、守衛や憲兵が交代してからそっと出てきた。(逃げた)この時私は死地を脱したといえようが、トラックに乗っていた人たちは再び帰ることはなかった」
私はこの後、この機関誌に「シンガポールにおける日本人の歴史」を連載する役割を与えられ、からゆきさんから日本軍による華僑虐殺事件までの歴史を綴り、松井記者の目に留まりインタビューを受けることになった。リー元首相のその後の足取りを未だに追っている。
子連れの家族
日本軍から逃れた後、私が毎年滞在しているキャメロンハイランドの山中(ブリンチャンらしいことはこのブログでも報告した)に潜伏し、日本の敗戦後、氏はロンドン、ケンブリッジ大学に留学した。氏に対する評価は割れているようだが私は高く評価している。
在任中の彼が示したスローガンは「クリーンアンドグリーン」「スピークマンダリン」(中国の標準語を話そう)だった。前者は道路や公園をきれいにする。(唾や立小便、ゴミ捨て、公園内の騒音にも罰金)、後者は75%を占める中国人(福建、潮州が多い)に一体感を持たせるということだったと思う。
私がリークアンユーを高く評価するのは多民族国家の平和共存の正しいあり方を示したことだと思っている。中国人に次いで、マレー人、インド人、白人の4民族の平等、さらには各民族、宗教の違いを認め合うことを求め、法的、慣習的な違いを法的に保証した。例えばシンガポール大学の食堂でもメニューは勿論、ゴミ箱まで区別した。氏の冥福を祈る。
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