安達太良山を行く
7日(金)暑。広島に続いて、間もなく9日の長崎への原爆投下が行われる。その原爆投下を命令した元米大統領トルーマンの孫が今広島を訪れ、「二度と使われてはならない」と講演をしているとのニュースに接した。その中で「日本人は誰も私に謝罪を求めなかった」とも。
この言葉を複雑な思いで聞いたのは私だけではあるまい。私は日本政府や国民による中国・韓国への真摯な謝罪を求めるが、同様にアメリカに対し、いかなる理由があれ、許されるべきではない原爆投下に対し、政府も国民も謝罪を求めるべきだと思っている。
アメリカのマンハッタン計画(原爆開発)は42年、日本が負け始めたころにスタートした。最近盛んに取り上げられる、ドイツや日本にも原爆開発計画があった。しかし、人類史上最初に実験に成功したのはアメリカで45年7月16日ニューメキシコで実験に成功。
なんで八紘一宇なの?! その実験成功前に投下計画は進行していた。6月1日、スチムスン陸軍長官を長とする委員会は①原爆の対日早期使用、②民間建造物と軍事施設の二重目標、③無警告による使用。6月18日、トルーマン大統領(ルーズベルト死去)3軍の長官が集い、九州侵攻作戦を議論。最大の話題は米軍兵士の死者数だったという。それを避けるために原爆を。
7月3日、ワシントン統合参謀本部は3軍の長官宛て、京都、広島、小倉、新潟の4都市への爆撃を厳禁する命令が下っている。7月25日、ポツダムの陸軍長官から空軍司令官宛て「8月3日以降、天候の許す限り、次の目標に投下せよ。広島、小倉、新潟、長崎」
米軍はこの4都市について驚くほど詳細な調査を行っていた。新潟については「新潟(人口15万)は建設機器、デーゼルエンジン等の重要な工業都市でありまた、大陸への船舶輸送の中枢港である」(事実31年の上越線の完成によって東京、新潟、清新(北朝鮮)、満鉄ルートが整い大陸侵略の最大基地となり、39年には人、物資とも日本一となった)
くろがね小屋の前 そして広島、長崎に運命の日がやってくる。新潟が第三目標であったことは終始変わらなかったが、小倉、新潟が免れた理由については新潟歴史博物館の学芸員でさえ、「天候」だと説明しているが、私が新潟気象台に直接出向いて見せてもらった記録には新潟上空は6,9日両日とも「快晴」だった。
その後も、その真相を解き明かした著書を私は知らない。この間、天皇も政府も手をこねいて動かない。天皇が動き出したのは9日のソ連参戦を聞いた後である。その躊躇によって20万人以上の命が失われ、満州の悲劇が始まるのだ。第三の原爆も予想された。
8月11日付新潟日報によれば、知事布告。「一般新潟市民及び工場の疎開、公共施設の疎開」を命じ、新潟市内は疎開を拒否した人たちを除いてガラガラとなった。私の母の親族は西蒲吉田の私の実家に大挙して疎開してきた。家内の祖父母は拒否したという。