安達太良山を行く
9日(日)暑。昨日、今日と新潟祭りなのだが、私の中では新潟祭りは子どもの頃で終わっている。昨日、特攻のことを書いたら、たまたま夕方の「報道特集」が取り上げていた。戦意高揚のために人の命を弄んだ軍部とそれを許した天皇に改めて激しい怒りを憶えた。
今日は長崎の日。二人で長崎の方向に向かって、犠牲者を悼み、安倍政権の打倒を誓った。広島の日に非核三原則を削って様子を見、批判の強さに驚いて、今日は入れるという、どこまでもずる賢い安倍晋三である。そのチルドレンの武藤貴也も地元で批判されている。
武藤の選挙区の若者たちが声を上げ、「あんな発言をする議員を滋賀から選出して悲しい」と。この男の所属する親分の麻生太郎は「法案が成立した後に言ってくれ」ということは発言自体は認めるということだ。「お前が行け」とツイートされた武藤は何と言ったか。
鉄山?「国会議員がいないと政治が滞るから行けない」と開き直っている。お前のような国会議員がいなくとも国は成り立つと言ってやりたいが、戦時中の政治家や軍部の将校らは同じ理屈で国民を守ろうとしなかったばかりか、率先して逃げた事実を確認しておこう。
8月9日は長崎の日であると同時に、ソ連参戦の日である。8月9日午前0時、ソ連軍は北から、西から満州になだれ込んできた。ソ連参戦を強く望み、ドイツ降伏後3か月後とヤルタ会談で約束させたのは米英である。日ソ中立条約の期限は46年4月25日であった。
この条約はお互いが延長を望まない場合は1年前に相手方に通告することになっていた。ソ連はそれに従い45年4月、延長しないと通告してきた。その時点で、天皇は勿論、政府も軍部もソ連の参戦を予期したはずである。居留民を帰国させる十分な時間はあったのだ。
見事なハエマツ ヤルタ協定は密約だったから「ドイツ降伏3か月後」は知らなくとも、予測はできたし、事実、一か月後に戦争指導会議で議論され、ソ連参戦は時間の問題だとし、特に8月は厳戒だとしながら何の手立ても講じなかった。居留民132万人の運命が危険に晒された。
天皇側近の木戸幸一日記によれば、8月9日、昭和天皇は9時55分、木戸を呼び「ソ連が我が国に対して宣戦し、本日から交戦状態に入った。ついては戦いの収拾について、急いで研究し決定する必要があると思うので、鈴木首相とじゅうぶんに話し合っておくように」と。
この話が終わったのが、長崎に原爆が投下されるおよそ1時間前だった。つまり、天皇が戦争の終結に動き出したのは、原爆ではなく、ソ連参戦を重視したということだ。原爆投下32分前、宮中の防空壕で天皇、鈴木首相以下の最高戦争指導者会議が開かれた。 つづく