百日紅がようやく満開
26日(水)百田尚樹、櫻井よしこ等右翼「非文化人」の沖縄の新聞潰せ活動はますますエスカレートし、日本会議のお仲間を引き連れて度々沖縄に乗り込み、講演会や沖縄二紙の不買運動までやっているという。最終的に日米地位協定と辺野古問題に至る沖縄を考えたい。
初めに、先日聞いた沖縄県人会前会長で現在は年金者組合新潟県支部の書記長を務める上地源光氏の話を配られた資料からも引用させていただきながら、私なりにまとめてみたい。沖縄が江戸時代まで琉球王国という独立国だったことは国民の多くは知っていよう。
元々3つの王国に分かれていた琉球が統一王朝になったのが1429年。室町時代のことである。琉球統一王朝の王は尚氏というが、その尚泰久が首里城の鐘に刻ませた言葉に「舟を使って世界の架け橋の役割を果たす」があるという。琉球はまさにそんな国だった。
稲穂も色づいて 琉球は中国明との貿易を中心に朝鮮、日本、安南(ベトナム)、シャム、パタニ(タイ)、ジャワ、スマトラ、パレンバン、スンダ(インドネシア)、マラッカ(マレーシア)等々、東南アジアの一大中継貿易王国となり、ヨーロッパ人にもレオキとして知られていたと。
韓国朝鮮人が嫌う日本人3人といえば伊藤博文、豊臣秀吉、福沢諭吉の名前が上がるというが、豊臣秀吉は言うまでもなく「朝鮮出兵」で国土を荒らされ、略奪、多くの人命が失われたからである。慶州の仏国寺もその一つだが、土台を除き、すべて焼き払われた。
韓国が誇る法隆寺より100年も古い寺で、勿論世界遺産になっている。その朝鮮出兵の折、薩摩の島津義久は琉球に7000人分の兵糧米の供出を命じ、抵抗したが、やむなく半分を負担。1609年、今度は家康の時代、薩摩は3000余の兵を率いて乗り込み、屈服させ、王と重臣を捕虜とした。
台風が通過中の朝 武器を持たず、交易によって国を建てることを誇りにしてきた琉球の人々から誇りを奪い続けている日本本土と沖縄の関係がこうした侵略、略奪からはじまったことを銘記しておこう。家康は島津に琉球を与え、「琉球仕置き」を命じた。狙いは対明貿易の復活だった。
明治になって沖縄への差別はさらに強まる。1872年(明治5)琉球王国を琉球藩に改め、国王尚泰に藩主の地位を与え、華族の称号を授けた。そして、幕末に琉球が諸外国と結んでいた条約も勝手に引き継ぎ、王が望んだ対清関係の継続も勿論、認められなかった。
1871年、宮古島の船が遭難し、台湾で乗り組み員が殺されたのを口実に明治政府の西郷従道が3600名の兵を率いて台湾に上陸、交渉の末、琉球人を日本人と認めさせ、75年、清に対する朝貢・冊封停止、琉球王国の解体、沖縄県の設置を一方的に押し付けた(琉球処分)