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NO3177 沖縄を考える(4)

小舟で岩をくぐる

岩を小舟でくぐる 28日(金)維新の橋下、松井両氏の離党は茶番だ。自民党に合流してくれた方がわかりやすい。その維新も含めた政府与党は「ヘイトスピーチ禁止法案」の先送りを決めたという。人殺しを煽り、人種差別を吹聴しても、罰せられない国は先進国にないだろう。

 

 占領軍の圧力で移民を余儀なくされた沖縄の人々は敗戦後、帰国してみれば、我が家は金網の中だったという悲劇、上地源光氏の家族もその一つ。お父さんの源吉氏は沖縄県中頭郡読谷村楚辺の貧農の次男坊として誕生。満州事変後の34年、18歳でテニアン島に渡った。(44年当時日本人が軍人を除いて15700人もいた。原爆投下機が発信した島)


 5年後に顔も知らない母親のツルさんが嫁として源吉のもとへ。必死に働いて沖縄に仕送りをした。42年に兄が生まれ、2人の姉も生まれた。太平洋戦争の敗色が濃くなり、サイパンが陥落、やがてテニアン島も陥落した。家族は戦火を逃れるため、サイパンの南アギガン島へ。

 

絶景を見ながら川下り
絶景を見ながら川下り 絶壁の中にある洞窟の中で45年8月まで身を潜めていた。長女の幸子はそこで餓死したという。米軍に投降した避難民たちは沖縄に送り返された。家族は沖縄本島の泡瀬キャンプに収容された。その後、脱走して石川キャンプに移った。その間に次女の早苗も栄養失調で亡くなった。


敗戦後、47年3月、収容所から故郷読谷村の楚辺への帰還が許された。帰ってきた集落や畑があった場所は、金網に囲まれた広大な米軍基地になっており、立ち入ることができなかった。家があった場所は軍需物資の集積場になっていた。その年の11月源光氏は生まれた。


 元の集落に戻れない住民は金網の外にへばりつくようにバラックを建て、新しい生活を始めることになったという。生活のための仕事は、奪われた土地の上に米軍基地を建設することだったというから、その無念さが身に染みる。百田発言を思い出すだけで腹が立つ。

 

水田も
水田も 50年になるとアメリカは恒久的な基地建設にという本格的に着手し、沖縄のいたるところで土地取り上げと基地建設が進められた。家、屋敷や耕作地を失った人たちは基地建設労働に従事するほかなかったのだと。勿論、その屈辱が怒りに代わることは必然のことだ。

 

 そこでアメリカは戦前と同じように移民政策で対応した。ブラジル、アルゼンチン、ボリビアそして石垣島、西表島への移民だった。父親の源吉氏は石垣島への移民を決意し、51年8月、石垣島の米原へ入植。源光氏3歳半のときだったと。開拓の苦労話もある。

 

 マラリアで大勢の人たちが犠牲になったという。父の兄弟では5男がボリビアに、三女がアルゼンチンに移民したという。アメリカ占領下では日本に主権はなく、憲法も適用外であった。こうした悲劇も元を正せば、日本があの戦争を招き、沖縄を捨石にしたからだ。

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