フエのタクシードライバーと
11日(日)曇。ユネスコが南京事件を「世界記憶遺産」に登録を決定したことに対し、日本政府が中国とユネスコに抗議をするという。お門違いも甚だしい。恥の上塗りだ。抗議の理由が「南京事件については日中間に見解の相違があることは明らか」どんな見解差だと?
虐殺事件そのものについては櫻井よし子でさえ否定できないし、外務省のHPでさえ認めざるを得ないのだが、彼らは様々な理由、例えば便衣隊(民間人ゲリラ)は見分けがつかないから殺害の対象だとか、すぐに降伏しなかったから、最大のごまかしは殺害数である。
中国側の主張は30万人、日本の研究者の間では20万、10万、5万、2万、自由主義史観の連中の中にはせいぜい3000人などと言う者までいる。20万の数字は上海事件から南京占領までに殺した数も含める学者もいる。3000人なら虐殺ではないとでもいうのだろうか。
フエの喫茶店の庭で 今朝の時事通信の報道も変だ。「日中間に事実認識に隔たりがあり論争が続く中での認定」だとか「慰安婦女性が強制的に連行されたとの見方日本では否定論が強い」事実認識の隔たりというのは一部特異な学者の申し立てであり、まして否定論が多い根拠とは何だ。
小林上等兵の日誌の続きを紹介する。12月14日、午前9時より大隊の予備隊として市内北部を掃討する(掃討とは殺害の意味)。12月22日、日本語の良く話せる支那人が3人のクーリーを連れて世話に来た。その中の年若奴、手癖悪く加給品の缶詰や煙草を取ったので、夜死刑にした。
12月26日,材料の徴発(略奪=筆者)に付近の大きな家へ行く。彼等(使役していた中国人)室内の様子を知って居るので色々とよい品物を徴発す。4月10日、尓(ニンベン中国人の蔑称)が銃を隠したので我々は村民全員北門外に集めひとり一人一人槍問した。銃は宿舎近くの高粱の中にあったが、誰も知らない。村民から一人の勇士が出て一同の犠牲となった。これは砲兵の将校が死刑にした。村民はこの犠牲者のために一同涙を出して泣いた」
フエの街角 5月9日、7時出発、準備をととのへ大隊の主力の来るのを待つ、伝令来たりて後退。途中師団司令部と出会ふ。中島師団長閣下「豚のような奴は遠慮なく殺してよいぞ」と笑って行かれた」ここで出てきた師団長は中島今朝吾中将である。
戦後、責任を問われることもなく45年10月病死している。南京攻略戦にのぞむ時のこの男の日記には「捕虜は取らぬ方針」とか「捕虜を日本刀の試し切りに使った」「捕虜を一か所にまとめて処理そのための大きな壕を要する」などの記述があるという。ここに紹介した一上等兵の日誌だけを見ても、世界記憶遺産登録に抗議などできるのかと言いたい。