日本軍強し
3日(火)曇。日韓首脳会談でのアベの発言には誠意がないばかりか、言葉とは裏腹な態度が見え隠れする。今年は日韓条約50周年にあたるが、この条約交渉は中断を繰り返しつつ7次にわたり行われ、65年に妥結調印された。中断の理由は日本側の暴言である。
新潟情報大の吉澤教授らはこの条約交渉の議事録の公開を求めているのだが、50年経っても公開されないのはなぜか。公開されると日本に不都合な内容があることは間違いない。先日の講演会でも吉澤氏が触れた、第三次会談での日本首席代表久保田貫一郎の暴言だ。
この発言の詳細は元韓国外相・金東祚氏が著書「韓日の和解」に書いている。久保田発言「もし日本が当時、韓国に進出しなかったとすれば、韓国は中国、若しくはロシアによって占領されたに違いない、そして日本による占領よりもはるかに惨めな経験をしたであろう」と。
山下・パーシバル会談 これが、これから戦時中の賠償、補償に応じようという交渉での発言なのだ。要は日本は山に木を植えた、鉄道も敷いてやった、建物も建てたてやった。だから韓国に与えた損害と相殺しろという態度で一貫していた。アベの韓国観はここに遡ることができるのでは。
さて、シンガポールでの大虐殺事件の序章である。当時から虐殺事件の口実として、「華僑の激しい抵抗」を挙げ、共産党員や華僑義勇軍は殺されて当然、少なくともやむを得なかったと受け止められていた。しかし考えてみれば、激しい抵抗は当然のことではないか。
南京事件でも自由主義史観論者たちは公然とそれを主張している。しかし、シンガポールでの事実は「白人との戦い」を強調し、華僑義勇軍との戦いを小さく見せようとしてきた軍部が一転してその存在を大きく見せようと宣伝した。白人の実態はアジアの植民地人(インド兵やマレー兵)であった。
日本の降伏調印式 ペナン占領後の将官たち(参謀の杉田一次ら)の「山下奏文や辻正信が『シンガポールの華僑は皆殺しだ。シンガポールだけじゃない、とにかく南洋から華僑を一人残らず追い出せ』と命令しているのを何度も耳にした」と証言している。
占領直後、日本軍は何をやったか。8名の中国人を捉え、首を切り落とし、見せしめのために、その首を市内4箇所にさらしものにした。この事実は82年、カランブリッジの2人の首が晒された写真と共に私の在任中の生徒二人もタクシーの運転手に聞かされた話である。
当時、ラッフルズ博物館副館長のコナーは「思い出の昭南博物館」に「華僑の浮浪者が大勢、首と首とを数珠つなぎにつながれていた。ああして処刑の順番を待っているのだと兵隊が私に耳打ちした。彼らは助けて!と絶叫していた。私は平静を失い、煙草を吸った」