弥彦駅
4日(水)晴。この恥ずべき政権はアメリカの植民地状態から脱しようとするのではなく、増々従属を強めようとしている。日米政府中枢で「同盟調整グループ」なる新機関を設け、自衛隊と米軍の一体運用に踏み出した。はっきり言って米軍の指揮下に入るということだ。
新聞は「日・米・比防衛協力強化」などと伝え、これによって日本の抑止力はさらに高まるなどという政府見解を一方的に垂れ流している。確かに中国の人工島建設で最も対峙しているのはフィリッピンであるが、日本がのこのこと出ていく必然性がどこにあるのか。
比はASEANの一員として、アメリカに基地招致を申し出ることはあり得ない。ASEAN憲章にのっとり、非同盟を貫き、軍事力でなく外交で紛争を解決する知恵を積み重ねてきたし、その基本的姿勢は変わることはないと思われる。比の基地撤去の歴史を見てみよう。
もみじ谷公園 比はマルコス独裁政権が長く続いた。今の日本同様アメリカの言いなり独裁政権だった。米国に亡命していたベニグノ・アキノ元上院議員が帰国した直後に暗殺されたのが83年である。事件から3年後、86年2月、100万人が宮殿を包囲、マルコス政権を打倒した。
代わって大統領になった夫人のコラソン・アキノは87年、新憲法を公布。91年、上院が米軍基地存続条約の批准を拒否、92年までに米軍基地を完全撤退させたのである。この一部始終を共同通信フィリッピン支局長として見続けた人が前掲の石山永一郎氏だった。
氏によれば、富裕層出身のコラソンは基地について維持の方向に傾きかけていた。それを阻止したのが公募の中から大統領によって選ばれた民主派の憲法起草委員会だった。そして憲法草案に「外国軍基地の原則禁止」地位協定に「核兵器の貯蔵禁止」を盛り込んだ。
もみじ谷公園
日本も憲法第9条を厳格に守る意志があれば、同様の決断ができたのに吉田茂や岸信介らはアメリカ従属の道を選択したということである。交渉がすんなりいったわけではない。基地撤退に反対するクーデター未遂事件が相次ぎ、賛成派も全国各地でデモを繰り返した。
90年予備交渉開始、フィリッピンの交渉代表はラウル外相、米側は今ジャパンハンドラーと異名をとるアーミテージだ。比側が提示した案は六か所の基地中、クラーク空軍基地など5か所を返還させ、スービック海軍基地のみ当面の継続使用を認めるというものだ。
アーミテージは烈火のごとく怒り、「彼は冷静さをなくし、『これで我々の関係はおしまいだ』と怒鳴った。会談を決裂させアメリカに帰ると脅し、比側の提案を取れば投資は停止する、フィリッピン基地労働者は解雇手当ももらえないだろう」比側を攻撃し続けた。