炎天下での検証の様子
7日(土)アメリカのラムズフルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官に日本の「旭日大綬章」が贈られたとのニュースにはあいた口が塞がらない。この二人はイラク戦争に深く関わった。何より日本にどんな功績が。自衛隊を出せと脅した人に勲章をさし上げる?
そもそも日本の勲章制度には疑問がある。ここでは書かないが、勲章はどこの国にもあることは承知しているが、日本ほど肩書や社会的地位に拘泥する国は珍しい。死後の墓に刻むときも、遺族が受け取る恩給にまで位階による差別が続いているのは差別では?
シンガポールの大虐殺に先立って行われた「大検証」の基準ほど、いい加減なものはない。知識人は「反日」だと断定する、その他、財産を5万ドル以上持っているもの、海南島出身者、政府機関の職員、抗日義勇軍及びそれに類する反日団体。該当しない人はいた?
シンガポールの大屠殺とある この検証を口実をつけてキャメロンに逃れた人物の中に、シンガポール初代首相のリー・クアン・ユーがいたことは以前書いた。氏は勿論、英語家庭に育ち、親は資産家でもあり、もし検証で「摘出」されていれば、間違いなく、虐殺の対象にされたであろう。
検証の様子については長年シンガポールに在住していた篠崎護著「シンガポール占領秘録」に「太陽の直射する広場や道路いっぱいに集められた何千、何万の群衆を一々検問するのは大変な作業だった。わずかな憲兵と無経験な若い兵士、下手な通訳で完全な取り調べなどできるものではなかった。ブスーと立って、頭を下げない若者とか、腕に入れ墨のあるもの」は列外に、・検問の終わった者は腕に『検』のスタンプ。消えないように帰宅。
「検証」で集められた者は15万人とも20万人とも言われる。当時のシンガポールの人口はおよそ77万人。そのうち中国人は56万人であった。検証で列外に分けられた人々はその後どのような運命をたどったか。戦後の 戦犯裁判での証言から紹介してみよう。
シンガポール大屠殺 法廷における検察官(P)証人(W)のやりとり。W「学校(収容所)に集められました」P「その後、どこへ行ったのですか」W「30分後、日本兵の一隊が私たちをロープで後ろ手に縛りあげ、トラックに乗せました」P「どこへ連れて行かれたのですか」
W「タナメラ・チャンギ―です」p「何人くらいですか」W「私の記憶ではおよそ20台です。一台に20~25人、従って400~500人が海岸に連れて行かれたと思います。P「あなたがベサールに着いたとき何が起こりましたか」W「私たちはトラックから降ろされ、日本兵が電線を取り出し、8~12人の群で縛られました」P「それからどこへ・・」W「海の方へ歩くように命令されました」「日本兵が後ろから一斉に機関銃で打ち始めました」