日本語学園
23日(月)晴。私は元教師の端くれとして、シンガポールにおける軍による教育政策は絶対に許すことはできない。やられる側に立ってみれば、誰でも理解できることである。これを正当化できるどんな理由があるというのだ。櫻井よしこらの気持ちがしれない。
すでに書いたように、知識人は抗日派とみなされ、中国人教師は「華僑粛清」の対象。ヨーロッパ人教師はすべて捕虜となった。そのために、授業再開が不可能となったのである。学校名はすべて町名に改称され、例えば、昭南市立武吉班譲馬来初等学校となった。
中学校は廃止され、代わって、技術・貿易・海洋・漁業・電気通信・農業関係の学校が設立された。皇民化教育の実態は前掲「新馬華人抗日史料」に基づいて説明する。学校の生活時間は東京時間にあわされ、日の丸掲揚、宮城遥拝、君が代斉唱で一日が始まる。
日本語教本 授業の中心は日本語と体錬が中心で、英語教育はすべて禁止。中国語は方言とみなされ、毎日一、二時間しかなかったし、マレー語やヒンズー語も同様だった。民族の言葉さえ奪うという、かって19世紀の植民地主義者でさえやらなかっ暴政である。日本語教師がいなかった。
そのため、軍政部は「興亜訓練所」に各民族の生き残り知識人を集め、教師や役人を養成しようとした。放課後になると教師は日本語学校に通わされ、習った日本語を翌日の教室でオウムのように繰り返した。日本語の教科書を作ろうとしたが、人材不足でできなかった。
それで、算数、地理、歴史、常識、公民は教えなかった。学校の休日も日本のそれが押し付けられた。紀元節、陸軍記念日、靖国神社例祭、天長節等々。さらに、現地民にとっては屈辱的な陥落の日2月15日を「馬来新生記念日」とし、シンガポール初爆撃の12月8日を「大東亜聖戦記念日」にした。
修了証書 授業中、次のようなトラブルもあった。教育局長が「養正学校」を訪問した時のこと。局長は授業を止めさせ黒板に三つの問題を書き、答えを紙に書いて提出させた。問題は①東亜の国家はどの国が最高か②最後の勝利はどこの国のものか③中国で最も偉大な人物は
局長の正解は勿論日本、日本、汪精衛(汪兆銘=日本の傀儡)であったが、ある二人の生徒は中国、中国、蔣委員長(蒋介石)と書いた。局長はどうして汪主席ではないのかと尋ねたところ、生徒は“汪主席は政権がなく偉大とは言えない。校長は指導不行届きで叱責、生徒は行方不明となった。
こうした状況下で、親は不承不承子どもを学校にやったが、平均出席率は40%程度。意識的に登校を拒否した者が多かった。日本占領中と敗北後の学校及び生徒数を比較すれば歴然とする。46年、中語系学校の生徒数は一挙に123%に回復した。マレー系は7割台だったのに。