ホイアンの街
26日(木)雨。このブログは基本的には365日休むことがない。途切れさせたくないので、できるだけ書き溜めておく。私が赴任した年に起こった日本の教科書の国際問題化。それを受けて、シンガポールの中学生用歴史教科書は大幅に書き換えられることになった。
シンガポールは人民行動党の事実上の一党独裁で表現の自由のない国とされている。事実、今年度の報道の自由度ランキングで日本の61位をはるかに下回る153位である。そのシンガポールでさえ、教科書検定はなく、教科書は民間のCDIS(教材開発公社)の発行だ。
各学校の教師は各出版社の教科書リストに基づいて話し合い、採用する仕組みだ。日本のように現場教師を採択から排除する国など、およそ民主主義国にはないのだ。教科書は大幅に改定され85年版では286P中、79Pを第二次大戦と日本の関係に割いたのだ。
日本人町のあったホイアン ヨーロッパ戦線の解説はわずか8Pに過ぎない。内容も格段に詳しくなり、5章だてでその主な内容は第二次大戦と日本の東南アジア制服、マラヤにおけるイギリスの敗北と日本の成功、日本占領下のシンガポール、日本の敗北、戦後の年となり、図版も大幅に増えた。
何か所かを抄訳すると、イギリス降伏後のシンガポールの項「日の出を表す日の丸の旗が家々の前に掲げられた。昭南島に改称された。意味は南の光であるが、この“光“は明るく輝かず、人々は日本の支配の下で暗い毎日を過ごした。いつでも誰もが見張りの日本兵が通り過ぎる時には彼らにお辞儀をしなければならなかった。やらなければ殴る、蹴る」
「中国人の処刑」の項には「日本人は中国人を憎悪し、虐待した。(略)『検証』を受けなければならなかった。指定地の何か所かは日よけもない所で、そこに一日中放置された。彼らはほとんど食料も水もなく、トイレの設備もなかった。数万の中国人がトラックで・・」
仏教への帰依は深い 「日本人は他民族をどう扱ったか」の項では「ユーラシアンは中国人と同じくらいの苦痛を受けた。(略)多くの人は収容所に入れられた。イギリス人を支持、援助したと考えられたこれらの人たちが狙い撃ちされた。日本人はマレー人とインド人を好意的に扱った」
「マレー人やインド人の援助を必要としたからである。数千のインド軍人とたくさんの市民は、日本がビルマとインドでイギリスと闘うために組織下インド国民軍に加わったが、かなり多くのインド軍人(主力はシーク)とほとんどのグルカ兵はイギリスに忠実で、インド国民軍に加わることを拒否した。彼らは逮捕され、拷問され、殺された。