リムさんたちが塩辛いという客家料理
8日(火)朝から霧雨。バンクカード問題で二人の娘の世話になっている。結局パスワード再発行の手続きを銀行との間で郵送で進めることにした。そのための手続きをやり取りしている間に晴れてきたので、ブリンチャンまでお昼のチキンライスと餃子の皮を求めて歩く。
1時過ぎに着いたらすでにライスは売り切れ。人気店で昼しかやっていない。皮もここタナ・ラタで扱っていた店が止めたと。ブリンチャンにもなく、シュウマイの皮で代用することにした。餃子というのは基本的に中国東北・華北の食べ物なのか。ここの中華料理店でも出すところがない。
帰りは山側のトレッキングコース4番を通って帰ってきたので、往復2時間半1万7268歩だった。帰宅途中インド人のミニスーパー(圧倒的に多い)で南洋商報とThe Starの二紙を買った。丹念に戦争記事を探したが、見つからなかった。74年前ともなれば・・。
当時の話を聞くリムさん とはいえ、決して現地の人々の記憶から消えることはない。ネグリセンビラン州の旅の続きである。テイテイ村の記念碑にお参りした後、レストランで昼食になった。そのお店に居合わせた70代の4人のグループに次のクアラピラの場所を聞きに行った時である。
段々声が大きくなり、老人たちが時々私の方を見る。前掲の「史料」を片手に聞きに行ったものだから、彼らの記憶に火が付いたようだ。後でリムさんから聞いた話だが、当時の日本軍の残虐振りを口々に非難し、私を日本人かと聞かれたので、韓国人だと逃げたと。
私はむしろ日本人だと言ってもらって、直接謝罪したかった。こんな小さな村で1700人余の犠牲者を出せば、当然件の老人たちの親戚縁者に被害者がいたであろう。私は軽く会釈をしてその場を離れたが、彼らはいつまでも私たちの方に視線を送りながら話していた。
クアラピラの古い町並み 次のクアラピラの記念碑も広大な中国人墓地の中にあった。草が伸び放題で荒れていた。年一回4月にお墓参りがあるとのこと。リムさんは「どうしてこんな内陸部にまで日本軍は来て事件を起こしたのでしょう」と聞くので、華僑義勇軍の抵抗を理由に疑ったのでしょう。
二人でこの史料をめくっていたのだが、お互い読めない(私の方が漢字を理解するので)中、84年、88年の2回にわたりこの地を取材していた朝日新聞記者・故松井やよりさんが祭史君女史とインタビューしている写真や「マラヤの日本軍」の高嶋教授の名前も発見。
あの二つの記念碑や30か所近くに及ぶ虐殺地点の調査に日本人が深く関わっていたことに心の安らぎを覚えたし、誇りにも思えた。この本の初版は88年で、その後90年、09年と増刷を重ねている。アベや櫻井よしこのようなトンでも日本人ばかりじゃないのだ。